【俳誌を読む】
『俳句』2008年4月号を読む 2/2 ……さいばら天気
●大特集「切れ」についての大問題 p59-
「切れ」が大問題であるのは、この特集の趣旨とはひとまず別に、それについての議論がほとんどの場合に錯綜・拡散に向かってしまうことでしょう。こうまでとっちらかってしまった事態そのものが大問題ともいえ、その意味で、この特集タイトルは、なかなか微妙なニュアンスを含んでいます。
「切れ」論が混迷を極めたひとつの理由に、切れの定義が各個人によって違うことが挙げられる。(神野紗希「切れながらつなぐ~口語俳句と切れ」p84-)
現在の混迷をまずは整理しようとばかりに、神野氏は、「現在認識されている切れ」を、「構造上の切れ」と「表現効果としての切れ」とに区別します。
構造上の切れとは、俳句が書かれる際に必ず句末に訪れるもので、継続欲求からの切れである。長谷川櫂氏が「散文からの切れ」と説明しているが(…略…)俳句である以上、この切れは前提として必ず所有することになる。 (…略…) 表現効果としての切れには、大別して二つある。一つは句末に訪れて余韻を生む切れ、もう一つは句中にあって意味の交響を生み出す切れである。
句末にくる表現効果としての切れと、俳句があらかじめ有する構造上の切れとは、形態的には同一(あるいは重複)なので、ここはいったいどう違うのか、といった疑問も少しわいてきますが、それはそれとして、このうちの「句中の切れ」をめぐるさまざまな意見・立場が三つにまとめられています(命名は神野氏によるものか一般化したものか、不勉強の私には不明)。
部分分け系…川本皓嗣氏、復本一郎氏
人生系…長谷川櫂氏、宮脇白夜氏
空間系…外山滋比古氏、仁平勝氏
このうち「空間系」は、「切ることによってつなぐ」手法(*1)に言及した点で、他二者と違うと指摘、そこから口語俳句における「切れ」論へと展開されます。この後半部分が、神野氏の論考の主眼ではあるのですが、その導入としての「切れ論の整理」は、読者にとって有益。つまり、かなりすっきりと片づいた気分になります。冒頭に「総論」が置かれるのが『俳句』誌特集の構成の常ですが、神野氏のこれを「総論」として、まず読むことを、オススメします。
そうなると、長谷川櫂氏による総論「『切れ』とは何か」(p60-)がどのような論考なのかについて言わなければいけません。残念ながら、よくわかりませんでした。〔切れ=間(ま)〕が主眼らしいのですが、前半の「羊羹」の譬えで、なんだか頭がもやもやとしてしまいました(きっと私の能力不足です)。
切れとは「文字どおり『言葉を切る』こと」であると、文字どおりの事態が提示されたあと、それが「羊羹を切ること」になぞらえられます。
(…略…)このとき、何が起こったか。実はある二つのことが起こっています。まず羊羹は一切れ切り離されて食べやすくなった。もちろん一本丸ごとかぶりつけないこともありませんが、これでは羊羹の味がわからない。食べやすい大きさに切ることによって、羊羹を存分に味わうことができる。
羊羹は一句の譬えですから、置き換えて考えてみればいいのでしょう。切り離されて食べやすく(読みやすく)なった俳句とは? なんだか、よくわかりません。さらに続きます。
もう一つ、今度は羊羹の置かれている空間に目を移すと、切ることによって羊羹の本体と一切れの間にすき間がが生れる。このすき間は、いわば羊羹の余白です。(…略…)まとめて言うと、羊羹を切ることによって羊羹にすき間=余白が生まれ、この余白によって羊羹が食べやすくなった。
余白によって、さらに食べやすく(読みやすく)なったということのようですが、羊羹の本体と一切れとは、それぞれ一句のどの部分を指すのでしょう? 一句のなかに「本体」と「一切れ」があるということでしょうか? 切り離された羊羹と羊羹の間のすき間を「余白」と呼ぶのは、そうとうに無理があると思いますが(余白の本来の意味からして)、それはさておき、こうした羊羹の譬えで、切れについて何かがわかった気がまったくしません。
きっと、頭のぼんやりした人にも理解できるようにとの配慮から、「羊羹」の譬えが持ち出されたのだと思いますが、頭のぼんやりした私などからすると、譬えることで、かえって難解になったような気がします。
*
ところで、「切れ」は俳句の重大事とされ(実際そうなのでしょう)、しばしば「川柳」との決定的な差異ともいわれます(主として俳句側から)。はたして、そうか。千野帽子氏「復本一郎『俳句と川柳』を再(誤)読する」(p76-)がそこに異議を唱え(*2)、たいへん興味深い論考です。
切れの有無は、「俳句らしさ」と「非・俳句らしさ」の区別を判然とさせるための目安にすぎないと、千野氏は言います(ここでの用語は千野氏の用語を忠実に引くものではありません・以下同様)。区別が要請されるのは、俳句と川柳が似ているからです(五七五というかたち)。差異を見つけ、それを強調することで、区別を区別のままに保全しようとするわけです(他者との差異を強調することで境界を画定しアイデンティを確認する。これは社会学・人類学など広く人文科学一般に頻繁な話題でもあります)。
俳句らしくなくて、川柳らしくなくて、でも、作品として面白いものがある。それらを排除する方策として「切れ」論が用いられるとすれば、それは残念なこと。こうした千野氏の意見には、大きく頷きながら読みました。
*
「切れ」の存在は、そしてその存在を意識し理解することは、俳句を豊かにする。そうには違いないのですが、そのことを重大視するあまり、従来的な「切れ」を持たない句を、どう扱うかという問題が生じるようです。そこから、口語俳句の切れについて展開したのが前出・神野氏の論考、川柳的なものの排除・排外を論じたのが前出・千野氏の論考とも言えるでしょう。
切れを広義に捉えることで、いっけん切れのない句も、切れ論の領野へと取り込もうとする方法(「(一句一章も含め)すべての俳句は切れをもつ」)もアリかもしれませんが、それは同時に、「切れのない句は俳句ではない」との教条ともなります。排除のための教条によって、ある種の俳句的愉楽が失われることもありそうです。
ここはひとつ、「切れ? なくても面白い句はあるよ」と、切れをあえて狭義に捉えること(一句の中の切れに限定して論じること)も必要かと、この特集を読んでいて感じました。
(*1)「切ることによってつなぐ」機能は、この特集所収の堀切実「近世俳諧の『切れ』」(p66-)の主張と繋がる。
(枯山水の)「土塀」は庭の内と外とを「切り」つつ、しかも「つづく」ように構造化されていることになる。
(*2)千野帽子氏のブログ「0007 文藝檸檬」に、著者自身の当該記事紹介があります。
http://d.hatena.ne.jp/chinobox/20080325
また、復本一郎『俳句と川柳』について、インターネット上で読める論考として、以下の2つを挙げておきます。
橋本直「俳句と川柳試論」
http://homepage1.nifty.com/haiku-souken/report&essay/haikutosenryu.htm
樋口由紀子「『俳句と川柳』を読んで」 『MANO』第5号所収
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-05-higuti02.html
※『俳句』2008年4月号は、こちらでお買い求めいただけます。 →仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22
■■■
2008-04-06
『俳句』2008年4月号を読む 2/2 さいばら天気
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿