2008-04-13

山廬を訪ねて 広渡敬雄

山廬を訪ねて ……広渡敬雄

初出「青垣2号」(2007年6月)


飯田龍太氏が亡くなったのは、二〇〇七年二月二十五日だった。生前に一度訪ねてみたいとの漠然とした思いがあったが、その思いが高まったのは、「俳句朝日」2007年4月号の龍太追悼特集にあった龍太邸(山廬)の写真だった。

山廬に着いたのは、朝六時四十分だった。四月一日にしては、ことのほか暖かく、前日の雨のためか、盆地のみならず、境川の小黒坂地域もやや霞んでいた。

途中で地元の人に言われた通り大きな桜のある「堂」を左折すると、山廬が俯瞰された。大きな赤松、けやきの大木、銅葺きの平屋建ての景が、朝靄の中、眼前にあった。


家紋が入った二階建て瓦葺の家がある。これは隣の飯田家のものか。ちょうど鳥たちの目覚め後の活況な時で、囀りが終始耳にここちよかった。しばらく山廬を離れ、坂を登る。

  春暁のあまたの瀬音村を出づ

すぐに左手から、川の瀬音が聞こえる。龍太の傑作〈一月の川一月の谷の中〉の山廬の裏の狐川である。護岸のコンクリートがやや気になるが、川幅は四~五メートル位か。

  鶏毟るべく冬川に出でにけり

小さな竹林の横を、川に沿って下っていくと、鉄板の橋があり、裏山につながっていて、しっかりとした道がある。ひっそりと菫が咲いていた。

途中に山口素堂の句碑がある。さらに登るとやや台地となって視界が開け桃畑となり、ピンクの花が香しく匂い、又南アルプス他四囲の山々、甲府盆地の絶景が拡がる。

  いきいきと三月生まる雲の奥

  雪山に春の夕焼滝をなす

また、この飯田家所有の裏山では、多くの佳句が生まれている。

  手が見えて父が落葉の山歩く

  父母の亡き裏口開いて枯木山

  冬耕の兄がうしろの山通る

裏山を下り、橋を渡って道に出るため家屋の間を抜けようとすると小さな堀池があり、黒々とした鯉が何匹かいる。ピンと来るものがあった。客人をもてなすために、龍太が自宅で飼っている鯉を移し替えて、泥臭さを抜かせた後に供した「鯉こく」がことのほか美味であったという文章が小林恭二の『俳句という遊び』の中にある。

  別の桶にも寒鯉の水しぶき

そのまま家屋の横を進むと玄関に出た。玄関には、大きな瓶があり、二三本の満開の桜の枝が挿されていた。表札は「飯田龍太」とあり、亡くなって一ヶ月がたつものの生前のままの雰囲気である。

門は三メートル位の左右対称の石で左門に「飯田」との彫りが入っており、蛇笏の頃からの石門かと思うと感慨深い。その間には、木製の車止めがあった。

玄関から門までは、十メートル余。かなり大きな飛び石がある。離れ具合は、ちょうど龍太の歩幅くらいか。

庭には、堂々たるさるすべりと、龍太の書斎に寄り添うような大きな赤松。有名な雪吊りは取り外してあったが、枝を南に向けて水平伸ばし、庭師の見事な技を見る思い。

  雪吊りの縄の香に憑く夕明り

他には、木椅子と陶のテーブルと石燈籠。龍太と「雲母」の人達が座して楽しく談笑している様子が想像された。しだれ桜のそばを燕が横切った。初燕か、、、。

  初燕木々また朝をよろこべり

やや低い練塀越しに、山廬全体が見通せる。

囀りが、ずっと山廬を含む小黒坂一帯を包み、桜、桃、馬酔木等が鮮やかに咲き乱れていた。

  百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり

山廬を訪ねた余韻に浸りつつ坂を下る。

坂の途中に、道祖神、庚申塚があり、「俳句の散歩道」との道標もあった。勿論、下から山廬への道のことである。

  ふるさとは坂八方に春の嶺

やはり、この小黒坂地区そのものが龍太の作句工房なのだと改めて思いを深くした。もう既に「俳枕」とも言えるだろう。

  大寒の一戸もかくれなき故郷


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