2008-05-11

中西夕紀 寡黙な無頼派 岩淵喜代子さんのこと

〔俳句つながり雪我狂流→村田篠→茅根知子→仁平勝→細谷喨々→中西夕紀→岩淵喜代子

寡黙な無頼派 岩淵喜代子さんのこと ……中西夕紀



岩淵喜代子さんにはじめてお目にかかったのはどこかのパーティーだったように思う。小柄で清楚な人とまず思った。そして若々しい。やや年上と思ったら私より十七歳年長でいらしたのには驚いた。次に無駄口をきかない人だなと思った。無口ではないのだが、おしゃべりを為さらない方なのだ。これについては、最近出た第四句集『嘘のやう影のやう』の栞に齋藤愼爾氏がうまいことを書いておられる。

「私は俳人たちが華やかに回遊する喧騒の只中で、悠揚迫らぬ態度で秘かに(陸沈)している岩淵さんを目撃しているのである。」

まさに私もそのように感じたのだが、このように鮮やかに言葉に表されると、すっきりした画面でもう一度岩淵さんを眺め直したような気分だ。

その後吟行でご一緒する機会があって、今度はパソコンの扱いに堪能なことがわかった。エクセルの操作をそのとき教えていただき、俳句の整理に良いと勧めてくださった。歩きながら丁寧に教えてくださったあの道の様子は覚えているのに、私ときたら肝心なパソコンの操作の方はすぐに忘れてしまった。

その次の吟行では、ご自身が代表をされている季刊誌「ににん」に連載している、原石鼎評伝のことをお聞きした。一回の分量が四ページで、二回分一遍に載せているときもある。最近は石鼎の資料に取り囲まれて机がある状態らしい。書かれるものは、資料を丁寧に読み込み、謙虚に立ち向かっている。時に寝食を忘れて書いていることもあるとお聞きした。

本来かなり無頼な(勿論文学的という意味においてのことだが)考えをお持ちの方のようだ。岩淵さんの文学的無頼は、文章より俳句作品においてよりはっきり窺えるように思う。『嘘のやう影のやう』には、太々とした岩淵喜代子という「生」が、虚実織り交ぜて描かれている。

  嘘のやう影のやうなる黒揚羽

これが句集名となった句である。実在しているものを、虚のものとして捉えるそこに、投影されている作者の希求する世界が見えてくるようだ。

  雑炊を荒野のごとく眺めけり
  運命のやうにかしぐや空の鷹

同じような作り方の句である。比喩を使うとかなり観念的なことを述べているのが、この句集の特徴だ。大胆な表現だと思う。表現者として太々と感じるのは、この他にもこんな句に遇ったときだ。

  死もなにもかもつまらなく臭木の実
  桐一葉百年待てば千年も
  百年は昨日にすぎし烏瓜

原裕門で、忠実に見ることから始まった俳句修行が、現在は自由自在の境地に到達している。かつて藤原龍一郎氏は、
「見る力の深化と時間性の獲得、この二つの特性があることで、岩淵喜代子の作品は、読まれる価値と魅力をそなえている」(「鹿火屋」一九八九「『眼力と時間』岩淵喜代子俳句について」)
と述べている。

私も時間性というものに着目した。藤原氏の引いた句よりもっと長い時間が第四句集では詠われている。それは死を起点に考えられているように思われるのだが、どうだろう。

作者は千年の命を持つ山姥に成り遂せているようだ。待つことは長いようで、実は短い。忙しいようで、退屈なのだ。つまらないと思えばこの世はすべてつまらないものだ。究極の死においてさえも。ここには岩淵さんの生に対する思考が読み取れる。そして思いの深まりをここにまた見るようだ。ここにきてこの世の見方が少し変わられたのではないだろうか。死を静かに受け入れるだろうと思わせる泰然とした気概を見る。

  夕顔の花にゆきつく恋心

この句に行き当たったとき、たぶんこの句が岩淵さんの素のものなのではないかと思った。文学的な匂いが濃く一集から発散している。それも女人文学の匂いだ。恋を詠うことは自然の成り行きのようにあるのではないか。

その一方で私は、初心の時から深めてきた、見て作るというやり方の句作りにも注目した。

  花吹雪壺に入らぬ骨砕き
  暗がりは十二単のむらさきか
  石榴の実食べて地べたを汚しけり
  雫する水着絞れば小鳥ほど
  三角に涼しき鶴を折りはじめ

これらは見ることを深めた句だ。女性らしい細やかさがあって好ましい句群だ。実際に見たものに、文学的なエッセンスを加えて調理した料理のようだ。かわいらしさと怖さの二面性を備えた句の様相に岩淵さんの奥行きを見る。俳句無頼は女性にもあることを確信してしまった。 


(了)


0 comments: