俳句の不可能性への架橋 ~「第二芸術」論を読む 〔前編〕
田島健一
『炎環』2008年1月・20周年記念号より転載
●はじめに~「第二芸術」論が投げかける問いについて
昭和二十一年十一月。日本国憲法が公布された同じ月に、雑誌「世界」にひとつの評論が発表された。
桑原武夫の「第二芸術─現代俳句について」である。
今読むと、驚くほど短い評論である。その短さに、この評論が、戦後の俳壇に大きな衝撃を与えた、ということを多くの人が不思議に感じるに違いない。
この短い評論は読む者にある種の「違和感」を感じさせる。そしてこのテクストの発表以来、その「違和感」をある者は「共感」として、またある者は「反感」として語ってきた。俳句の世界においてこれほどの長い期間、常に「反感」を買い、と同時に「共感」を得てきたテクストは他にないのではなかろうか。
「第二芸術」論には、いったい、何が書かれているというのだろう。
くれぐれも言っておかなければならないことは、この問いが「第二芸術─現代俳句について」というテクストの内容に対して向けられたものではない、ということである。そもそもテキストの内容については明白である。
桑原武夫はまず、「現代の名家と思われる十人の俳人の作品を一句ずつ選び、それに無名あるいは半無名の人々の句を五つまぜ、いずれも作者名が消してある」状態で、当時の「インテリ」と呼ばれる人々に評価させる、というプラグマティックな手法でその優劣の決定不可能性を証明し、その作者の地位が、作品の評価とは別の、党派的かつ閉鎖された世界のなかで決定されている、と指摘した。そして「かかるものは、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい」と述べた上で、「これにも「芸術」という言葉を用いるのは言葉の乱用ではなかろうか(中略)。しいて芸術の名を要求するならば、私は現代俳句を「第二芸術」と呼んで、他と区別するがよいと思う。」と評したということに尽きる。
桑原はこの「第二芸術」論を書いたことで、結果的に当時の有名無名の作者が作った十五句を証拠品として「俳句」及び「俳壇」を法廷に引きずり出し、その党派性、閉鎖性について糾弾することになったのである。
これに対し、提示された証拠品の信憑性を問い直したり、桑原武夫自身の西洋に偏向した近代主義的な点を指摘し、俳句を理解せず、俳句とは異なる「ものさし」による強引な論立てである、と述べたとしても、残念ながらそのような反論は、ほとんど力を持つことができない。なぜなら、桑原が「第二芸術」論の中で批判しているのは、そのような「俳句を理解しない」「俳句とは異なるものさし」を持つ者を読み手として認めない「俳句の閉鎖性」にあるからである。批判されている規範を、その規範自身に基づいて弁護することは不可能なのである。
提示された十五句の評価の是非を問題とすることや、桑原自身の俳句への理解度を問う、ということが、ほとんど意味を持たないのは、「俳句」という全体性にとって桑原武夫が外部から到来した「異邦人」だからである。この「異邦人」について、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは次のように述べている。
絶対的〈他〉、それが〈他者〉である。〈他者〉は私と数的関係をもたない。私と「きみ」との共同体あるいは「われわれ」という名の共同体は複数の「私」を単に寄せ集めたものではない。私ときみ、この二つのものは同じ一つの概念に属する個体ではない。所有も数的統一性も概念の統一性も私を他者に結びつけない。共通の祖国の不在が〈他人〉を─〈異邦人〉たらしめ、この〈異邦人〉がわが家を攪乱するのだ。しかし、〈異邦人〉はまた自由な人間の謂でもある。〈異邦人〉に対して、私は何かをなすことができない。(『全体性と無限』E・レヴィナス著/合田正人訳)
「共通の祖国」を持たない「異邦人」としての桑原武夫が「俳句」を攪乱する。そのような「異邦人」に対して、私たちは「何かをなすことができない」。そのような「異邦人」からのメッセージを正しく受け取るために、我々に許された問いはひとつしかない。
それは、「なぜ、あなたはそのようなことを言うのか。」という、「異邦人」の起源についての問いである。つまり、本論で探求したいこと、それは、「桑原武夫は「第二芸術」論を書くことで、つまりは、何を書いたのたか。」という、ひとつ位相をずらした問いなのである。
●「作者」と「読者」について
大岡信氏は、いまからちょうど十年前に書かれた『「第二芸術論」五十年』というエッセイの中で、「第二芸術─現代俳句について」について、「この論が当時持ちえた衝撃力に匹敵する批評文は、その後五十年間、俳句文芸の世界ではついに現れなかったと思う。」という評価に続いて、次のように書いている。
ただ、このごろの俳壇の論調では─と言っても私は詳細にわたることは知らないので、むしろこのごろの俳壇内外の空気では、と言うべきところかもしれない─あの第二芸術論、要するに大したことはなかった、という具合に評価が変ってきているのが大勢だとか聞く。 お勇ましいこととは思うが、もしそういう考えが瀰漫しつつあるのなら、それは随分能天気な話じゃなかろうかと思う。第二芸術論は、桑原武夫によって書かれなかったとしても、他の筆者によって、あるいはもっと徹底的な悪意とともに、激烈な否定論として書かれていたかもしれないと、私は思っている。(『「第二芸術論」五十年』大岡信著)
さらに、「第二芸術」論が発表された当時の俳壇の反応を、歌壇のそれと比較して、次のようにも書いている。
俳句の方はどうだったろうか。事情はかなり違っていたように思われる。一つには、桑原氏の貼り付けた「第二芸術論」というレッテルが、ある意味で人々を唖然・茫然とさせるほどに、いわばみごとに極まっていたため、それに反論することさえ野暮ったく見えたということがある。二つには、桑原氏の、いわば社会学的統計によるサンプルの提示が、それなりの強烈な印象を与えると同時に、反面サンプル作りの不徹底さ、不適切さも明らかにあったため、俳人側としては大いに不満であったはずである。したがって、これは要するに垣根の外の素人談義じゃないかというのが一般的な反応となり、少なくとも表面的には、対岸の火事として無視する態度をとることもできたという事情があっただろう。(同書)
つまり、大岡氏は「第二芸術」論が発表された当時も、このエッセイが書かれた五十年後の当時も、「要するに大したことはない」「垣根の外の素人談義じゃないか」という態度がはびこっていた、と言っている。そして、そのような風潮に対して、次のように釘をさしているのである。
しかし、桑原氏の投げかけた問題のうち、根本的ないくつかの点については、当時と同様、今でも俳句作者が片時も忘れずに頭のどこかに置いておかねばならないものではなかったか。(同書)
このエッセイは、今からちょうど十年前のものであるが、十年後の今日も事情は変わらない。おそらく「第二芸術」論の発表以来、十年単位で時間を切り取ったとしても、まるで金太郎飴のように、俳壇における「第二芸術」論に対する評価は変わらないであろう。
その評価とは、簡単に言い換えてしまえば、「言っている内容には、大いに不満はあるけど、けっこう図星ついてるじゃん」ということである。つまり、先に「反感」と「共感」を同時に得てきた、と書いたが、重要なことは、いつの時代にも「反感」派と「共感」派と呼ばれるようなふたつの派に、俳壇が大きく分かれていた、というような話ではなく、「第二芸術」論に触れたひとり一人の俳人の中に、そのような感情が程度の差はあるものの「同時に」発生したのである。
この「反感」と「共感」が同時に発生するような感情、これを指し示す適切な言葉を、残念ながら私たちは共有していない。「第二芸術」論とその読者の間には、そのような「名付け得ぬ感情」が発生するのである。
実は、この「第二芸術」論を読んで私たちが感じる「名付け得ぬ感情」と、桑原武夫が俳句を読んだときに感じた感情は、似ているのではないだろうか。
私は、そこに「作者」と「読者」の間の、本質的な議論が俟たれているような気がするのである。
さて、ここで「作者」と「読者」について基本的な点を確認しておかねばならない。それは、「作者」と「読者」はいかにして顕れるか、という点である。
一般的に「作者」や「読者」といったものは、自然発生的に存在している、と考えられている。つまり、「作者」と呼ばれる者と、「読者」と呼ばれる者が、別個に存在しており、「作品」は「作者」から「読者」へ向けて提供される、という見方である。
「作者が作品をつくる」
「読者が作品を読む」
私たちが日頃なにげなく使っている、このような文脈は、「作者」や「読者」が、時間的に「作品」より先行して存在することを想定している。けれども、現実はそうではない。
「作品」を書かない「作者」はいない。また「作品」と対峙しない「読者」もいない。「作者」も「読者」も、「作品」と関わることで初めて、そこに顕れるのである。つまり「作者」と「読者」と「作品」は同時に顕現する、ということになる。
「作者」とも「読者」とも定まらない者たちの中に、「作品」が置かれることでその両側に、同時的に「作者」と「読者」が生まれる。
あたかもそれは、一枚の平野に一本の川が流れることで、その平野が此岸と彼岸に分かれるようなものである。
では、このような「作者」と「読者」の分断は、「作品」のもつ何がそうさせるのだろうか。
●俳句における不可能性について
「作品」という一本の川によって分断された此岸に「読者」が立っている。「読者」は「作品」という川を決して越えることができない。
「読者」にとって彼岸に立つ「作者」は、「作品」について「すべてを知る者」として表出する。「作者」を絶対的に後から追わざるを得ないもの、それが「読者」である。「作者」は、「読者」にとって常に「先行する」者、「知り尽くすことができない」者として対岸に立っている。この「決して越えることができない」「知り尽くすことができない」という「不可能性」が、「読者」を「読者」としてそこにとどまらせるのである。
俳句における、この「不可能性」こそが、まさに「作者」と「読者」の分断を基礎付けている。
「不可能性」とは、絶対的な不可能性である。「知り尽くすことができない」ものに対して、何らかの条件が整えば、それを「知り尽くすことができる」というようなものではない。条件が整うことで「可能」になるようなものは「不可能性」ではない。また、具体的な意味で俳句を作ることが「困難である」ということを言っているのでもない。事実、言葉を五七五につなげることは簡単であるし、それを評することも、至って簡単なことである。
「不可能性」を前にして、「読者」は「作者」の中に常に「理解不能」な何かを見出し、「作品」を通して「作者」が書こうとしたもの、「作者」の求めたものを欲望する。さらに、「作者」を理解不能な「読者」は、その「作品」は自分の知らない「規則」に則って書かれているからに違いない、と想定する。その「規則」を知るものとして「作者」を追い求め、その「規則」を知ることで「作者」を自分の中に再現しようとし、けれども「作品」を「再現」することの「不可能性」と出会うことで、その欲望を、さらに深める。
この「自分の中に再現しようとすること」これが、まさに「第二芸術」論の中で、桑原が「芸術の意味」と呼ぶものである。
わかりやすいということが芸術品の価値を決定するものでは、もとよりないが、作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるというのでなければ芸術の意味はない。
(『第二芸術』桑原武夫)
けれどもむしろ、そのような「作者の経験」を「再生産」できないところに、芸術の価値はある、と言うことはできないだろうか。「再現性」がないこと、これが「不可能性」の特徴のひとつである。
だから、『「不可能性」はどのようにして「可能」か』というような方法論に置き換えて、「不可能性」を捕捉することはできない。「鶴の恩返し」に登場する鶴のように、その姿を見たとたんに、私のもとから去っていってしまうもの。それが俳句の「不可能性」である。
「第二芸術」論の中で、桑原は、提示された十五句について、「これらの句のあるものは理解できず、従って私の心の中で一つのまとまった形をとらぬ」と書くことで、自分自身の「絶対的な読者」の立場を宣言しているのである。
さらに、桑原は「理解不能」なこれらの作品の評価をするには、彼自身の知らない「規則」があるに違いない、と考えるのである。
その結果、桑原は、彼の知らない「規則」を、「作者の俗世界における地位のごときもの」へと論を展開する。
俳句においては、世評が芸術的評価の上に成立しがたいのであるから、弟子の多少とか、その主宰する雑誌の発行部数とか、さらにその俳人の世間的勢力といったものに標準をおかざるを得なくなる。(『第二芸術』桑原武夫著)
確かに、俳句の世界には、日常生活にはないような特殊な人間関係が存在する。その代表的なものが「師弟関係」である。
(つづく)
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1 comments:
たとえば桑原武夫の「現代の名家と思われる十人の俳人の作品を一句ずつ選び・・・。」という言葉を「現代の名家と思われる十人の陶芸家の作品・・・。」あるいは「現代の名家と思われる十人の画家の作品・・・。」と置き換えてみたらどうなるでしょうか?
問題はこの意地悪な評論に俳人たちが動揺していることにあるような気もするのですが...。
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