2008-08-17

成分表20 鼻 上田信治

成分表 20 鼻 
上田信治


初出:『里』2007年8月号



鼻の頭というものは、人間の顔のめくるめく表情の変化に、あまり参加しない。

それは、顔の中にあって、もうひとつの顔のようだ。

革靴の先に小さなやわらかい反射光が灯るように、鼻の頭も小さく光っていることが多い。それは、顔のもっとも前にあって、皮膚が丸く張りきっている部位だからだろう(そういえば、靴の先の丸い部分のことも、ノーズというのだった)。 

その光は、加齢によって、あまり変化しない。鼻の頭は、老けないのだ。

子供が成人の顔になっていくとき、鼻自体は、気持ちがわるいほど形の変わるものだが、鼻の頭は、全体の形ができたあと、ずっと花の盛りの頃のままにある。

電車や喫茶店で居合わせた知らない人たちの鼻の頭を、やや後ろめたい気持ちで、窃視する。

それは、その人の体の「若い部分」であり、また敏感な先端のひとつでもある。

そこには性的なニュアンスを、感じないこともない。


  夏帽子うつむいて鼻うつくしき  大串章
  田草取る僧侶の鼻のうかみ出で  田中裕明


どうして、こんなことを思ったかというと、比較的どうでもいい会話のきっかけに「異性の体のどの部分に惹かれるか」と聞く人がいて、胸とか脚とか答えれば率直なのだろうけれど、他に何か「よい部分」はなかったかと考え、鼻の頭などはどうだろうと思いついたのだった。

本物のフェティシストにとって、対象は刻印された呪いなのだろうが、自分にとって、鼻の頭は偶然の思いつきであり、気になっていたのは、ほんの一時のことだった。
 
よく言われる「神は細部に宿る」という箴言は(それほど大した真理だとは思わないが)、世界から細部を切り離して見つめるという行為の物狂おしさと、関係がある気がする。

偶然によって選ばれた一細部を見つめていると、世界が、その細部から発して濡れるようにニュアンスを帯びていくあの感じ。


  吊るされて地面に近き猪の鼻  森田智子





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