2008-08-31

榎本 享 物静かに、しなやかに ~対中いずみさん 

〔俳句つながり雪我狂流→村田篠→茅根知子→仁平勝→細谷喨々→中西夕紀→岩淵喜代子→麻里伊→ふけとしこ→榎本享→対中いずみ

物静かに、しなやかに ~対中いずみさん

榎本 享




あれはある俳句総合誌のパーティでのこと。「文」からは西野文代さんと私が参加していた。「ゆう」の田中裕明さんは私たちの見知らぬ女性を伴っていた。

病気療養中と聞いていた裕明さんはお元気そうで、楽しそうにお酒を飲んでいた。
とても心配していたけれど、好きなお酒を飲むまでに回復された姿に接し、文代さんも私もほっとしたものである。

「享さん、こちら対中いずみさんです」と裕明さんに紹介されたとき、「ゆう」を毎号読んで彼女の仕事ぶりを知っていた私は、とっさに「優秀なスタッフがいらして裕明さん安心ですね」と言った。お互い、それぞれの結社で編集を手伝っているという、親近感を持っての発言であった。

「いえ、いずみさんはスタッフではなくて、作家です」と遮るように訂正された。静かな言葉に力が籠っていた。後で考えると、この頃すでにいずみさんの「ゆう俳句賞」受賞が決まっており、掲載される3月号が出る直前だったので、それを伝えたくても伝えられず、こんな発言になったのかもしれない。

パーティが終わる頃「僕はもう少し残りますから、いずみさんを大阪駅まで一緒にお願いします」と、掌中の珠を託された。そんなことがきっかけで知り合った私たちだが、ごく自然に会う機会が増えて、今は一緒に吟行することも少なくない。

 薄氷にひとすぢ細き流れかな

いずみさんの囁くような声に似て、ひっそりとした作品である。見つめる心が澄んでいなければ、こうは詠めないだろう。

 はたはたのひとつは胸の高さまで

いつだったか、飛蝗がいくつも空へ飛び立つのを見たことがある。とても感動的な瞬間だったのに、私には表現出来なかった。こういえば良かったのである。悔しいけれど、敵わないなと思ってしまう。

 天牛の角やはらかく反らしけり

 梅雨の蝶翅たたむとき色深く

飛蝗や天牛や蝶に出会ったとき、その対象と一体になるまで、息をひそめて待つことの出来る作者だ。性急に言葉にしないで、言葉がゆっくりと現れるまでじっと待てる人なのだ。

 底紅やひろびろとして葭の倉

 ひとすぢの畝の籾殻初しぐれ

 木の花の匂ひの中の円座かな

景色だけを詠むのは難しいけれど、それぞれの作品の中心にはっきりとモノがあり、そこから大らかな近江の風景へと広がる、読み手の想像力を誘う作品である。

 夕焼けのいちばん端の色が好き

 雲のふち輝いてゐる茨の実

 すれちがふ宵の電車や草螢
 秋簾越しに外灯ともりけり

いずみさんはよく空を見上げる人なのだ。一刻一刻変わっていくその輝きに敏感な人なのだ。また、大自然だけじゃなく、電車や外灯の光にも反応する人なのだ。宵闇の中をすれ違う電車が明るければ明るいほど、足元の草螢に、心を添わせるのであろう。

 夜に入りし草の匂ひや更衣
 一舟は魦選り分けゐたりけり

 一斉に椅子引く音や秋燕

ここに人がいるはずなのに、読み手にその気息は伝わらず、品のいい一幅の絵を見ているような感じを受けてしまう。墨絵のように淡くて深いのである。

 緑蔭や嬰の靴下の先あまる

この句だってそう。みどりごの姿は緑蔭に溶け込むように視界から消え失せて、小さな足に履かせた靴下の余っている部分、ふわふわしたその部分だけがクローズアップされている。

 朝顔の蔓の産毛と吹かれをり

 爪先に波の泡くる初昔

 背に当たる日差の強き垂穂かな

「朝顔の蔓の産毛」、なんて素敵な写生なのだろう。ここでもその風に吹かれているはずの作者は消されて、産毛をまとった、蔓の先だけがそよいでいる。

 ともに聞くなら蘆渡る風の音
 さきほどの冬菫まで戻らむか

ここに到って初めて、はっきりと作者が登場する。その凛とした意志の登場である。自己主張せず、自然の風物に語らせようとしてきた作者だからこそ、この二句が読み手に強く響くのであろう。

 その大き翼もて雪降らしけむ

悼 田中裕明先生 三句 と詞書のあるうちの一句である。裕明さんは雪を降らせるだけでなく、その大きな翼でもっていずみさんを進むべき方向へ導いていると、私は確信する。敬愛する師を失うのは、心にぽっかり穴の開く思いだ。

頼りにしていればいるだけ、心もとなくて喪失感が大きく、途方に暮れることになる。それでもいずみさんは歩きださねばならなかったし、すでに覚悟を決めて俳句の本道を進んでいらっしゃる。

俳縁とは年月の長さではない。短い縁であっても深かった筈、篤かった筈。

「いずみさんは作家です」

あの日きっぱり言い放った裕明さんが、今もきっと温かい眼差しでいずみさんの成長を見守っていらっしゃいます。

大きな翼に問いかけながら、ひたすら進んでいってください。私はそのしなやかな作句姿勢に、いつも刺激を受け続けています。
 


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