2008-08-17

覚悟 陶工・國吉清尚を通して 澤田和弥

覚悟 陶工・國吉清尚を通して ……澤田和弥










「天為」2008年5月号より転載


国吉清尚(くによし・せいしょう)という人がいる。正確には、いた。陶工である。俳句はやっていないようだ。沖縄の土と火で沖縄の陶器を制作した沖縄の人である。昨今、早稲田大学文学学術院教授の丹尾安典氏によって「再発見」され、論文や展覧会、またNHKの「新日曜美術館」で特集が組まれるなどされた(註1)。丹尾氏の論文に感動し、そこからふと俳句についても考えることがあったので、ここに記させていただきたく思う。

國吉清尚の生涯については丹尾氏がまとめられた年譜などがあるのでそれを参考にしたい(註2)。清尚は昭和十八年(一九四三)に生まれ、平成十一年(一九九九)に亡くなった。太平洋戦争真ッ只中の沖縄に生まれ、二十一世紀という新世紀を見ることなく、亡くなったことになる。

昭和十八年九月二十八日、國吉清健・シヅ夫妻の長男として首里に生まれた。母のシヅによると父の清健は首里城の中にあった第一小学校の教員であった。また首里城の博物館の管理人でもあった。館長のような存在の人物は目が悪く階段が急だったため、清健に管理を頼んだらしい。

國吉夫妻は首里城に暮らし、清尚はその近くで生まれた。清尚の「清」は父・清健から、「尚」は首里城城主尚氏からとったものである。首里城瑞泉門手前右側の石刻龍頭の口から湧き出る水「龍樋」の水を飲みながら、清尚は「王宮」で育ったのである(註3)。

丹尾氏は、

一九八一年五月に銀座の黒田陶苑で「現代の陶芸 國吉清尚作陶展」が開催された。その案内状の文面は加守田章二が執筆した。國吉の生い立ちを知っていたわけでもなかろうが、この陶芸家はその冒頭に「國吉君は王様のような顔をしています」と書いた。

と記している(註4)。

その後、大道小学校、真和志小学校(十歳の時に転校し、この小学校を卒業する)、寄宮中学校を経て、那覇高校に進学する。高校二年の頃から空手を始める。清健の友人であった剛柔流の八木明徳に入門する。シヅによると清尚はなよなよとしていたので、元気になるように始めたという。のちに七段まで昇段する腕前であった。清尚の空手について弟分の本竹裕助は次のように語っている。

空手はすごかったですよ。あの人はすごく研究する人でね。むかしの剛柔流はどんなものであったとかね。きたえかたもハンパじゃなかったですよ。あの人の考え方では空手では身を守るというのが一番大事だった。でも身を守るには人の数倍強くならなければならないのね。だから組み手でも清尚は真っ向から突いてきたものね。そのとき寸止めしないで突いてきたのも、これ受けきれなければ、事がおきたとき、オマエは死んじゃうんだぞという教えなんだよね。あの人は武士ですよ。(註5)

研究熱心な点は陶器制作においても古陶の蒐集などに努め、かなりの目利きであったようだ。また陶器制作に徹底して熱中した性格は空手でも見られる。私は空手については門外漢だが、剣道は少し齧っていた時期がある。

剣道と比較して思うところがある。剣道は元をたどれば剣術である。剣術は究極的には剣で殺し合い生き残るための術である。空手においても元をたどれば生き残るための術であろう。しかし今の剣道も空手もそれとは異なる。殺し合ったり、生き残ったりすることを目的とはしていない。剣道ではしっかりと防具を身に付け、剣も真剣ではなく竹刀を用いる。しかし清尚の空手は違う。寸止めしないで真っ向から突いてきたり、身を守れなかった場合に死を意識させたりすることは現代のものではなく、古のものである。

本竹は清尚のことを「武士」と呼んでいる。剣道にも古の剣術を意識して竹刀を握られている方はいらっしゃる。そういう方は往々にして真面目で、生きることに少々不器用な方が多いような印象を私は持っている。

昭和三十六年(一九六一)第十三回沖展の絵画部に風景画で入選している。高校三年の頃から沖縄の古陶の蒐集を始める。高校卒業後、上京。赤羽のレンズ工場に就職し、顕微鏡レンズの研磨の仕事に従事する。翌年の昭和三十八年(一九六三)には沖縄に戻り、秋頃から壺屋の陶工小橋川永昌のもとで陶器制作の修行を開始する。

昭和四十一年(一九六六)には第十八回沖展陶器部門に「陶枕」を出品し、奨励賞を受賞。またその年に空手の腕がかわれ、日本大学国文科に入学。しかし大学には通わず、栃木県益子の県立窯業指導所で修行をする。昭和四十三年(一九六八)には沖縄に戻り、読谷村に窯を開く。翌年九月十日、安次富安子と結婚。二年後には長女和枝(後に真由美と改名)を授かる。

長女誕生の翌年、昭和四十八年(一九七三)の四月下旬に秦秀雄が清尚の窯を訪ねる。秦は目利きとして著名な人物であり、井伏鱒二「珍品堂主人」のモデルである。(註六)よい土瓶を求め日本全国を旅していた秦はその前年に鹿児島を旅行していた。市内の郷土料理屋さつま路で、清尚の丸文土瓶に出会った秦はそれを一目で惚れ込んだのである。妻の國吉安子は次のように語っている。

こんな土瓶を作る人は老成している人にちがいないと思って、はやく行かないと死んでしまうかもしれないなんて考えて沖縄に来たんですね。会ったらまだ若い人だったのでおどろいてしまったんですね。(中略)「おんなじ土瓶をつくれるわけないじゃない」なんて清尚は悠々とかまえていました。(註7)

丸文土瓶で注目を集めるが、清尚は土瓶作りをやめ、オブジェの制作を始める。商業ベースにのせて、量産化することを清尚はよしとしなかったのだろう。清尚の作陶姿勢を物語るエピソードとして本竹裕助は次のように語っている。

あの人と読谷で窯を開いた当時のことですかね。ぼくが手伝ってふたりで焼いていたんですよ、でも、出来たものが自分では気に入らんのですよ。ぼくはもったいないと思ったんですけど、アニキは割ってしまうのですよ。それも、こぶしでね。それが何十回もあったんですよ。それでようやく「これはまあまあいいなあ」というのができたんですね。そのときに「よし裕助、今日はふたりで料理をつくる」と言ってね、彼が料理の本を買ってきて、今日はこれこれをつくると言ってね、それからふたりでスーパーへ買い物に行って、たくさん料理つくって、そしてね、皿をたくさんならべて、そこに盛ってたべました。みんなおいしかったですよ。あんなうれしいことはなかったなあ。清尚が作った器をならべてさあ、いままでこんなしてこわしてたのがさあ、そこにあって……あのときの清尚の顔は忘れられないものねえ。(註8)

清尚にとって陶器をつくるということは一つ一つが真剣勝負だった。それだからこそ完成したものを愛してやまなかった。拳で割っていったことは清尚流の責任の取り方だろう。清尚の作品として世に出す限り、満足のいかないものは自らの肉体で壊した。同時に清尚の空手を思い出したい。拳で壊す辺りに空手の突きを想起させる。

清尚は空手において一番大事なことは身を守ることと言っている。沖縄の土と火を用い、大事な弟分の手まで借りたにもかかわらず、満足のいく作品ができなかった自分を、責任感から自分自身で責める。そういう自分から自分を守るために、清尚は自らの作品をその拳で壊したとも考えられる。空手七段でありながら清尚はさらに強くなりたかった。それは身を守るためである。過敏で繊細な神経を、自分を守るためであった。身を守るためには人の数倍強くならなければならない。

平成四年(一九九二)八月那覇で開かれた展覧会のタイトルが「僕ハモットツヨククナリタイ 國吉清尚黒陶展 華器 武器 秘器」であったことにもこのことが表わされている。比嘉正詔は次のように書いている。

益子での清尚は神崎正樹さんのところで雑器を作っていた。気に入ったものがあれば持っていってよいと云われたので、トックリと皿をもらっていった。(中略)しばらくすると清尚は、僕の下宿先に来てその皿を持っていった。あとで聞いたら、割って捨てたという。(註9)

益子時代は清尚の修行時代である。早い頃から作陶に対する真摯な態度がうかがわれるエピソードである。

図録には数点の清尚の土瓶の写真が載っている。丸みを帯びたフォルムにあたたかな肌合い。そして一番印象的なのは気品である。それは京の貴族のような洗練された優美な気品ではない。地方の王族のような力強く、誇り高き気品である。清尚の作品について丹尾氏は次のように書いている。

國吉の陶器は、どれもみな強靭で不敵な構えを保持している。しかも、その構えは固着していない。ひとつの作品のうちに、いわば静と動、緩と急がたえず呼吸の如く息づいている。一見無手勝流の作品のようだが、スキもアソビもない。國吉にとって作陶とは、素手で白刃に立ち向かうような、生死の瀬戸際の緊張を強いられる営為であったのだろうと思う。國吉は顧客の好みにすりよる創作は絶対にしなかった。國吉は世故に長けた陶器は生まなかった。桜坂の青年はそういうオトナになることを断固拒否した。そして、彼の正気も本気も、その澄んだ目も絶望も、すべて壺体に凝縮された。(註10)

土瓶などの制作から清尚はオブジェ制作へと移行していく。釉薬を用いず土そのままの肌をさらす小壺、ずんぐりとして強烈な存在感を持つ酒壺、女性の胸や腰を大胆にデザインした壺。作品はますます清尚個人の感性を露出したものへとなっていく。それは清尚自身を削り落としながら作品にしていたのかもしれない。そしてたどりついたのが「世紀末の卵」である。

これは壺と呼ぶべきか、華器と呼ぶべきか。とにかく「卵」である。陶器の卵である。無骨な卵である。壺は口を開いているので外界と交信することができる。外気を内に取り入れることもできる。しかし清尚はその口を閉じてしまった。卵はぶ厚い陶器の殻に覆われている。中は空洞だろう。しかしそこには目には見えない卵黄と卵白がある。もしかしたら胎児かもしれない。

清尚は土と火との戦いの全てを卵として宿した。清尚自身を卵の中に入れたのである。混沌とした世紀末を耐え抜き、新しい世紀へと向かうため自らの作陶の遺伝子を、沖縄への思いを次世代に伝えようとしたのである。卵の中には窯の中で割れたものもあった。火に敗れ、殻から溢れ出てしまうことしか出来なかった不器用な男の生きざまがここにある。

自らを卵に閉じ込めた清尚にあと残されたことは自らが陶器になることだけだった。「世紀末の卵シリーズ」と名付けられた展覧会終了から二ヵ月後の平成十一年(一九九九)四月十一日、円く囲ったレンガの中に身を置き、下半身に灯油をかけて焼身自殺を図った。沖縄県立中部病院に入院。約一ヵ月後の五月十日逝去。享年五十五歳。法号「隆生院法清尚徳信士」。

妻・安子は次のように語る。

彼は彼の人間的な部分に負けたような形で自分を消していったように思います。彼は陶芸家であるけれども、人間でしょ、子供たちの親でしょ、そういうところを彼はふみつぶして生きてきたでしょ。ふみつぶしながら焼き物に生きてきた自分があったんだけど、その現実と自分がありたいと思った自分とのギャップ、心のすみにあるモラル、人間的な部分……父親である、夫である、人間である自分があり、その一方で陶芸家として生きたい自分もあって、そんなはざまのなかで弱っていって、自分で自分を抹殺してしまったんじゃないか、なんて思うのですね。(註11)

一方、妹・金城葉子は次のように語っている。

清尚は四月にああいうことをして、それからひと月生きるんですけど、それは私達のために生きてくれただけなんですよ。清尚はもう死にたかったんだと思います。彼は頑張って生きてくれたんですよ。最後のひと月は清尚のサービスですよ。私は清尚が死んだとき、すごくほっとしました。よかったって思いました。生きていてくれたのがかわいそうで、ありがとう、と言いたかった。お医者さんが生きたいですかと清尚に聞いたとき、清尚は「生きたい」と言ったんですね。でも、私の知り合いにも医者がいるんですけど、あのくらいなら、生きたいと思えば生きられる可能性はかなりあると言ってました。一ヵ月だけは生きようとしたんじゃないですかね。(中略)姉は清尚が死んだあと、あんな繊細な人がよく五五年間も生きてきたって思うよ、ほんとに大変だっただろうね、と言ってました。(註12)

娘・秋本真由美は次のように書いている。

娘の気持ちとしては、もっとしたたかに、図太くこの世で生きてもらいたかった。そして作品を作り続けてほしかった。父は手先がとても器用な人だった。お茶杓、Tシャツ、テーブルなど、焼き物以外のものも自分で作っていた。しかし、生きることに関してはどうしようもなく不器用だったのだろうと思う。(註13)

清尚は死んだ。火に包まれることでしかその結末を迎えることができなかった。安子の語るように陶芸家としての生き方と一般の男性としての生き方との間で思い悩んだのかもしれない。私は陶器制作に殉じたように思う。「世紀末の卵」で清尚はもう全て出し切ったと思ったのだろう。陶器を作るしかないと思っている人間が陶器をもう作ることができないと自覚してしまったとき、その人には何が残るのだろうか。その答えを清尚なりに出したということではないか。私は彼の自殺を肯定している訳でもないし、否定しようなどともさらさら考えていない。

もう眠らう泳ぎ疲れた子のやうに  櫂未知子(註14)

全てを出し切った清尚にはただただゆっくりと休んでほしいという気持ちでいっぱいである。清尚がここまでしたということには「覚悟」という問題がある。どうしようもなく真面目で生きることに不器用であった清尚は陶器制作に対し、覚悟を持っていた。それは「素手で白刃に立ち向かうような、生死の瀬戸際の緊張を強いられる」覚悟である。真剣勝負であった。全身全霊を込めて闘った。だからこそ清尚の作品は秦秀雄や丹尾氏、白洲正子など多くの人の心を大きく動かした。大いなる感動を与える。

顧みて、私はどのように俳句に接しているだろうか。単なる趣味、言葉遊びとして接していることはないか。そのようなレヴェルで作句しても人を感動させることなど到底できない。覚悟である。一句一句に対して、いかに真剣勝負ができるか。全身全霊で作句したところに人の感動をよびうる可能性の萌芽がある。そのためには徹底的に自分を追い込み、究極の自己満足を得なければならない。作者自身が愛せないような作品に誰が振り向くであろうか。

清尚は大学の陶芸コースに進学した娘に次のような手紙を送っている。

トーゲイの道へ二四時間タイセイでのぞまれて、愛すべき作品を貴殿の手の中から心の内から泉の如くわき出して、止まることを知らずというふうに必ずなることを切に切に望みまふ。(中略)生活の全て陶芸の道へかけて歩みまゆみますことをお祈り申しあげます。(註15)

これが清尚である。これは陶芸に対する心構えであるが、俳句に換言できると思う。俳句を学ぶ者が心に刻むべき言葉ではないだろうか。作句に対し、自分自身という火を最大限に全力で燃やす覚悟を私は持ちたい。私は強くなりたい。

最後に秦秀雄の言葉を紹介したい。これは秦が清尚の工房を訪ねた後、清尚に宛てた手紙の一部である。昭和四十八年(一九七三)六月晦日のものである。

君よ君 作陶人として
名を追う勿れ 利を
追う勿れ たゞ一途に
君の好むもの 至妙の
もの佳品の製作のみを
生み作り あとは天下の
有識有眼の士の
手に渉るを待つのみ

(中略)

誠志の人 世俗に情に
染まず 高雅の清風に
胸をはって 雅状群を
ぬく作品を御製作の事
祈りやまず候





註1 丹尾安典「壺体・國吉清尚」 「比較文学年誌」四十二 二〇〇六年三月 「沖縄の壺体 國吉清尚」展 二〇〇六年七月三日(月)~同月二十二日(土)於早稲田大学會津八一記念博物館 同展覧会図録 大谷芳久・丹尾安典編 二〇〇六年 同博物館 NHK「新日曜美術館」(二〇〇七年七月一日放送) 註2 註一論文及び図録参照。図録の年譜に「編・丹尾安典」とあり。 註3 國吉シヅ「母が語る」(註一図録所収) 註4 丹尾安典「桜坂の清尚」(註一図録所収) 註1論文中で丹尾氏は加守田の推薦文の当該部分を「國吉君は沖縄の王様のような顔をしています。」と引用している。 註5 本竹裕助「弟分が語る」(註一図録所収) 註6 「珍品堂主人」は現在中公文庫などで読むことができる。初出は昭和三十四年(一九五九)「中央公論」一月号から九月号に連載。その年の十月には単行本化。 井伏鱒二『珍品堂主人』(中公文庫) 一九七七年 中央公論新社 註7 國吉安子「妻が語る」(註一図録所収) 註8 本竹註五聞書き 註9 比嘉正詔「國吉清尚のこと」(註一図録所収) 註10 丹尾註四論文 註11 國吉安子註七聞書き 註12 金城葉子「妹が語る」(註一図録所収) 註13 秋本真由美「父の思い出」(註一図録所収) 註14 櫂未知子『セレクション俳人6 櫂未知子集』 二〇〇三年 邑書林    初出は櫂未知子『貴族』(一九九六年 邑書林) 註15 秋本註十三論文


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