2008-08-10

インターネットという「座」は俳句を変えるか? 小野裕三

〔付録資料〕

インターネットという「座」は俳句を変えるか?

小野裕三


『一粒』2002年6月号より転載


私事で恐縮だが、僕は勤務先ではインターネットの仕事を日々の生業としている。一方で、土日などは句会に参加することを専らの趣味としている。一見、新旧好対照でアンバランスと見えないこともない組み合わせだが、意外にどうして俳句とインターネットは相性がよいようで、巷ではインターネットを活用した句会も盛んだ。

それは、そもそも俳句が「座」というものを基礎として成立しているからであって、つまりインターネットによるオンライン・コミュニティは、俳句に対して新しい「座」のあり方を提供してしまったのである。そして、この傾向はこれから強まりこそすれ、決して廃れていくことはないだろう。実際、インターネットをベースとした有力な俳句グループも登場しつつあるようだ。

俳句が「座」の文芸であり、俳句や俳人を育んだ要素として句会やそこに集まる連衆が決定的な役割を果たし続けたというのはあまりにも当然の歴史的事実である。そして今また、インターネットという「座」を通じて俳句が育まれるようになったとすれば、それは俳句に何らかの変質をもたらすことになるのだろうか? この問題について、少し所感を述べてみたい。

 

ひと頃、ワープロと文芸の関係が喧しく議論されたことがある。その趣旨は明白で、つまりワープロは日本語を、少なくとも日本語による文芸の質を、低下させるものであるという点にあった。つまり、ワープロによって生産された日本語は締まりがなく均質的で、つまり文芸としては極めて質の悪いものである、というのである。

以前、雑誌『文學界』でそのような特集を組んで各界識者へのインタビューを掲載していたが、僕の記憶では評論家や学者などは概してワープロの影響はないと応えたのに対し、詩人や小説家などはワープロによる悪影響を憂える発言が多かったと思う。

このことは取りも直さず、文章の美ということに拘る人たちにとってはワープロの悪影響というものはなんらか現実的なものであったということを意味する。だが、この議論にすらはっきりとした結論が出ることもないまま、時代は一気にワープロという言葉を死語の域に追いやってインターネットの世紀へと突入した。

とは言え、以前の問題が解決されたわけではない。ワープロだろうとなんであろうと、デジタルデータとして文字を入力するという形式が同じである以上、ワープロ論争で争われたことは未だに解決されていない。それどころか、インターネットという表現の「場」は、さらにそれ以上の問題を付け加えたと言ってよい。

つまり、デジタル入力によって日本語による文芸がどうなるか、という問題に加えて、インターネットという「場」を持った文芸一般は一体どう変化していくのか、という問題がさらに新しく登場したのだ。

ここで、事を俳句に振り返って考えてみる。実は前記のようなワープロ論争の折りにも、俳句はまったく蚊帳の外、という感じだった。理由のひとつとしてはその短さや定型という殻に守られているという側面も強いのだが、もうひとつには実際にキーボードを叩いて俳句を作る人などおそらくは誰もいなかった、という単純な事実にある。小説や評論や詩などの長い文章を書くときならともかく、俳句のような短いものをわざわざワープロやパソコンを立ち上げて作る必要はなかったのだ。

だが、実はインターネットという「座」が俳句にできてしまったことによって、俳句もこの問題から無縁ではいられなくなった。というのも、インターネットで句会をするということは最終的に俳句をデジタルデータ化することが必然となるからだ。だとすれば、最初から俳句をデジタルデータで作り始める人が出てこないとも限らない(例えば、現に最近の僕はPDAを持ち歩いて俳句はそこに入力し、そのデータをそのままパソコンからインターネット句会に送信したりしている)。

そのとき、俳句はついに肉筆としては書かれることのないまま作品化されていくことになる。つまり、俳句の長い歴史上初めて、一度も肉筆で書かれたことのない俳句が登場してくるということになるのだ。このことを単なる書き方の違いに過ぎないと軽んじる人がいるとすれば、それは俳句もくしは言葉というものに対する鈍感さの現れでしかあるまい。詩人や作家たちがあれほど憂えたワープロによる日本語文芸の質的変化という問題に、俳句も今また直面しているはずなのだ。

ともあれ、肉筆を介さない俳句は確かにこれまでの俳句とは変質していくのかも知れない。だが、そこで冷静に問われるべきはそれが本当に俳句にとってマイナスなことばかりなのか、ということだ。

実は先日、仲間内でインターネットではないがLANを使った句会を実施してみた。パソコン講習用の部屋を使って各自が端末から俳句を直接入力、そのデータをLANを通じて回収し、集計・ソートしてプリントアウトする、というものだ。ここでのポイントは言うまでもなく、思いついた俳句を直接キーボードで入力するというところにある。

実施後の参加者の感想は、「清記の必要がないのでいっぱい出してしまった」「考える速さと同じ速度で書けるので、たくさん作った」といったものだった。簡単なコメントであるが実に示唆的であり、例えば果たして思考の速度と同じ速さで書ける俳句というものがどのようなものに育っていくのか興味のあるところではあるし、一方で物理的な問題として清記者という「校閲者」(清記者を前提とした自主規制は意識的にせよ無意識にせよあるはずだ)がいなくなることによる質的変化も生じてくるに違いない。

さらに、その時の句会では興味深い珍現象が生じた。それは、自分の作った句を忘れてしまう、もしくは自分がこの句を作ったということに確信が持てない、という現象だ。後者は僕自身の体験なのだが、この句は自分が作ったと思うのだが、どうも違うような気もして仕方がない。やむを得ず、名乗りの時に誰も名乗りをしないのを確認した上で数秒遅れで名乗りを挙げる、というような始末であった。

このような珍現象は些細なことのようではあるが、実は本質的なことを含んでいる。つまり、肉筆を介さない俳句の誕生とは、さらにはインターネットという匿名性の強いメディアによる句会形式の出現とは、さまざまな意味で俳句における作者性の希薄化に貢献することになっていくはずだからだ。

そして、そのことは決して俳句にとってマイナス面ばかりではないだろうと僕は思う。と言うのも、俳句とはそもそもが斡旋の文芸や座の文芸という側面があり、つまりは内面やら自己表現やら個性やらなどという西洋的な呪縛に取りつかれた近代芸術観とは根底から相容れない部分がある。だが、まさにそのような反近代性こそが俳句のよさだと僕は思っているし、そのような俳句にとって前記のような作者性の希薄化は決して悪いことばかりではないだろうと考えるからだ。

勿論、こんなことは僕の憶測に過ぎない。だが、インターネットという「座」を俳句が得たことによって何よりもまず、俳句は不可避的に肉筆を介さない俳句の誕生という大きな問題にいずれ突き当たっていくだろう。そして、そのような肉筆によらない俳句の誕生とは、他のどのような事件にも増して俳句史上の最も重大な事件になるのかも知れない、という気が僕にはしなくもないのである。

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