2008-10-26

テキスト版 澤田和弥 一塊の肉

一塊の肉  澤田和弥

鉄球が山荘壊す修司の忌
飛龍頭のぽかんと浮かぶおでん鍋
蟷螂の轢き殺されしを見て立冬
寒灯はアジアの小さきラムプより
たらちねの母の蒲団に寝転がる
断崖に竹の根伸びる去年今年
元日のみがきあげたる便器かな
初風呂の兄がなかなか出てこない
何も言はず父が雑煮を食ひ終える
討ち死にを望むがごとき冬の蠅
修司忌の錠剤もろく砕けたり
鮟鱇の吊るされて人めきてくる
ずんべらずんべらと冬の川に板
昨夜よりも火の番の声嗄れてをり
右攻めしラガー左へ駆け抜ける
凍るもの我を睨みて喋らざる
喜怒哀楽激しき父の冬帽子
鮪捌かれ一塊の肉となる
浄土より流れてきたる余寒かな
冴返る五重塔の四方に扉
修司忌や湖渡る間の風青し
ダイニツポンテイコクケンパウ麦の秋
早春の指の先のみ老いてゆく
鳥は帰るのかそれとも逃亡か
ピエタより生るる春雨の光
この蒼き空摑まむと巣立鳥
佐保姫の唇に人さし指入れる
雑炊の卵の黄身の濃きところ
荷風忌の夢より覚めて独りなり
蛇穴を出でて忘れしこと多し
修司忌の廃墟が僕の胎内に
親一匹蝌蚪万匹の反抗期
永き日の裸のままの二人かな
陽炎やドードー鳥は飛べぬ鳥
風葬や蝶近付きて遠ざかる
柳見て母と交はせし二三言
細き煙草細き女の春ショール
昼は子に夜は中年に半仙戯
老人病棟・沈黙・石鹸玉
居酒屋に常連ばかり啄木忌
修司忌やブエノスアイレス午前零時
種選ぶ教師一年目の男
ぶらぶらと足の届かぬ春愁ひ
テーブルにパンの籠置く復活祭
春の海人愛さざる呑み込まざる
泌尿器科皮膚科小児科みな葉桜
水草生ふ母強き人もろき人
初夏に日の丸悲しかろ悲しかろ
水番の叔父と女体を語り尽くす
ねつとりと零るるままに夏の果

6 comments:

匿名 さんのコメント...

さわD、こんにちは。お元気でお過ごしですか?
昨年の落選展で、「お友達になってください」と呼びかけたのを真に受けて、本当に岡山までお友達になりに来てくれたさわD。若干ひきましたが、嬉しかったです。

さて、今回の「一塊の肉」。
相変わらずさわDは寺山修司にこだわり続けておられますね。「絶対一時通過狙っとらんじゃろ!?」と何度も突っ込みながら読ませていただきました。(誉 め て ま す !)

たらちねの母の蒲団に寝転がる

この句は直接的に「修司の忌」が登場するわけではありませんが、寺山を意識した母恋いの句ですね。キングサイズの幼稚園児のようなルックスのさわDがおふとんに転がってモジモジしているところを想像してしまいました。

石原的に萌えだったのは、

佐保姫の唇に人さし指入れる
ぶらぶらと足の届かぬ春愁ひ
親一匹蝌蚪万匹の反抗期
種選ぶ教師一年目の男

佐保姫、小学生ぐらいの女の子を想像してしまいます。すごくいけない感じがします。
足をぶらぶらしてるのも、小学生ぐらいの女の子。男の子でもいいな。大人がそれを見て「春愁ひ」だと感じてるみたいな。
たくさんの小さなおたまじゃくしがうじゃうじゃ動いてるところは、本当に反抗期みたい。「反乱」とかではなく、敢えて「反抗期」ってとこがいい。みんなてんでばらばらに反抗してるんですね。
種を選んでる先生、これがまた可愛い。小学校の先生であってほしいです。理科は専門外でなくてはいけません。一生懸命先生用の教科書や園芸雑誌を見ながら勉強してる。先生はもちろん眼鏡男子です。(ここ重要!)

ところで、この句。

修司忌の廃墟が僕の胎内に

「体内」ではなく「胎内」です。
胎内というと、母親の胎内をイメージしてしまいます。あるいは、仏像の胎内。
さわDは大学で仏像の研究をなさっていたそうですね。仏像研究に没頭するあまり仏像と同化してしまった上での感覚なのでしょう。
そんなところがいかにもさわDだと思いました。
やはり週刊俳句には「著者近影」が必要かも。

突っ込み始めるときりがないので残りは岡山に来てくれたら言おうと思います。
岡山の若手俳人一同(=約二名)が首を長くしてお待ちしてますよ〜。

匿名 さんのコメント...

●ずんべらずんべらと冬の川に板

「ずんべら」を調べてしまいました。「板」とう締めがいいですねえ。

●右攻めしラガー左へ駆け抜ける

このひと、何言ってるんだ?というトボケた句。

こうした弛緩よろしき句が、個人的な好みに合います。

が、全体として目指していると思しき的なトーンは、違うところにあるようです。テンション(緊張)、破滅、自虐、土俗、そうしたキーワードが思い浮かびましたが、煮詰めれば、もっとざらっとして読者を拒否するような作品になるとも想像するのですが、まだ、「いろいろな句があって、修司忌がなぜか繰り返し現れる」という、いい意味でも悪い意味でも散漫な世界。

このひと、もっとねっとりべったり行きたいんじゃないかなあ、と想像しながら読みました。

と、こんなことを書くのは、アジアとか忌日とかダイニツポンテイコクケンパウとか鉄球が山荘壊すとか、こういうネタは、イメージ喚起力が大きく、おのずと突出しますので、それをどのように句にしたいのかという意思の問題がとうぜん浮上するからです。こうしたネタは、ちょっと間違うと、どうにも無様になる。もちろん、その無様さをこそ、作品の主調音にするというやり方もあります。ねっとりべっとり、は、まあ、そんな意味。

長くなって失礼。

なんか妙なザラツキを持った作品ざんす。

匿名 さんのコメント...

澤田さんお元気ですか。最近あまりmixi書かないからちょっと心配してます。
早稲田のシンポジウムのときも伺えず、
お会いできなかったですね。
今回の句、読む楽しみが一番ある五十句でしたよ。
なんたって、あの高柳君を俳句にひっぱりこんだ張本人、この調子で突き進んでいってください(あ、別のものに突き進んでもよいですが)。

鉄球が山荘壊す修司の忌

あさま山荘事件ですよね。スローモーションで鉄球が前後して眼前にせまってくる
不気味な感触がなんとも。

寒灯はアジアの小さきラムプより

ラムプ、様々に先人の句がありますが、
なんとも現代的でよいです。アジア雑貨ショップのチープなランプがいい味わい。

元日のみがきあげたる便器かな

デュシャン、ですね。元日の空虚さがその白さに寒々しさを添えて。でもピカピカの
妙な晴れ晴れしさ。

初風呂の兄がなかなか出てこない

何してるんでしょうね?

右攻めしラガー左へ駆け抜ける

観客がいっせいにそれにつられて右から左を
向くんですね。面白い。

冴返る五重塔の四方に扉

名詞で止めた、急に断ち切られたような
スピード感が効果的。

ピエタより生るる春雨の光

この文体をもう少しやってみるといいかも。

佐保姫の唇に人さし指入れる

ぷぷぷ。仏像とか思わず指つっこみたくなる
ものありますね。

荷風忌の夢より覚めて独りなり

まさに荷風ですね。外は朝から雨。

陽炎やドードー鳥は飛べぬ鳥

おお!ドードー鳥が出てくるとは。アリスの世界を彷彿とさせて、澤田さんにぴったり。

修司忌やブエノスアイレス午前零時

ウォン・カーウェイの映画の男色を思い出す。

種選ぶ教師一年目の男

これもなんでもないんだけど、命ひしめく種と、情けなそうな頼りなさげな教師の姿が
好対照。風刺も効いていて。

水番の叔父と女体を語り尽くす

うわ、いいですね。これは水番の句で
なかった世界。あぜの泥のとこに
棒切れで図解してしまったりしてね。

思いつくまま、だらだらと鑑賞してしまいました。またどちらかで。ごきげんよう。

匿名 さんのコメント...

何も言はず父が雑煮を食ひ終える
 五十句のなかでこの句が一番好き。いつも何も言わない父親なのだろうか。正月の馬鹿馬鹿しいテレビなどがついていても、全然浮かれた調子ではない。厳父なのか、それとも情けなくて暗い父親なのか、母親は明るい人なのか、そもそも母はこの場にいるのか。こういう句は、自分の父親が何も言わずに雑煮を食い終わる様子を、一番に思い浮かべて読みたい。
喜怒哀楽激しき父の冬帽子
 この句は、前の句とは違って、自分の父親ではなく、彼の父親を想像して読む。きっと無口で、あまり露骨に感情を表に出さないおとなしい男だと思われているけれども、その実、感情の起伏の烈しいことは息子である彼と、そして冬帽子だけが知っているのだ。なぜか、この五十句では、母を詠んだものよりも父を詠んだ句に心惹かれるところが大きかった。
冴返る五重塔の四方に扉
 奈良の興福寺の五重塔の中に、一度だけ入ったことがある。中学三年生のとき、何百年に一度だかの、五重塔の中に入れる貴重な機会が修学旅行に重なっていて、折よく入ることができたのだった。昼なお薄暗い中、何百年もそこに息づいている仏たち。長きに渡って人の入ることの許されなかったそこは、しかし、やはり、明るい外界が冴え返る日には、塔の中の冷えも一層深まっていたのだろうか。
修司忌の廃墟が僕の胎内に
 修司忌の句で好きだったのはこの句。母を求めてやまない修司の母となりたいと「僕」が心の底から願ったとき、その体の中の暗闇に子宮が宿り、胎内という異界が現出する。そこに修司を呑み込もうとする「僕」だったが、哀れ、「僕」は「僕」であって修司の母どころか誰かの母ですらないものだから、胎内に生まれ出るものは廃墟しかない。景色の見えない、遠い暗い懐かしさ。それが、「僕」の哀しみ。
初夏に日の丸悲しかろ悲しかろ
 悲しかろ、悲しかろ。そう言ってあなたは笑う。このリフレインは、決して悲しい気持ちから来ているのではない。侮蔑とか、同情とか、可笑しくて可笑しくて抑え切れない笑い。悲しかろ、悲しかろ。そんなふうに言う人はどこにも見えなくて、初夏の日差しに、声だけが降り注ぐ。日の丸が立派にはためいているその分だけ、悲しかろ、というトーンも余計に虚無的に明るくなってゆくのだった。

匿名 さんのコメント...

◆<冴返る五重塔の四方に扉>
五重塔の四方に扉があったなんて、気づかなかった。こんなことに気づかなかったのは自分だけ?冴え返ることの際立つ場所だろうなあ。

◆<種選ぶ教師一年目の男>
いい句だ。好みで言うと<種選み>と名詞がいいけれど、他人の句に余計な話。
なんというか、<教師一年目の男>というごつごつした言い回しが、ここでは生きているような。
歳時記を写し取れば、種籾や大豆小豆などの種物を塩水につけ、浮いてくる不良な種を除くという季語。
もちろん子供を除く感じじゃなく、事前の手間隙を惜しまない先生の姿に呼応していると読みたい。
掲句では、掌に種を乗せて選んでいるような感じあり、その方が、句の雰囲気はぴったりくるのかもしれないけれど、それじゃあ季語
にならないし。

上田信治 さんのコメント...

ユキオさんと茂根さんに愛されて、もう満足してしまってると思いますが、
◆ずんべらずんべらと冬の川に板
は、句会で拝見したときから、自分の中で値段の下がらない句です。