初出『船団』第73号(2007年6月1日)
吉 祥 寺 へ の 転 居
昭和二十七年。鷹女は第三句集『白骨』を上梓。武蔵野市吉祥寺へ居を移す。
鷹女の年譜と文献を頼りに、家から自転車を走らせる。黒々とした幹の桜並木が濃い葉陰を作っている三鷹大通り。葉桜の間からは時折、ちらちらと明るい光がこぼれる。自転車を漕いでいると汗ばむほどの暑さだが、木陰を渡って吹き抜けてゆく風がひんやりと心地よい。吉祥寺から三鷹にかけて、このあたりの住宅地が持っているしっとりと落ち着いた雰囲気がとても好きだ。
しばらく走ると運動公園、野球グランドやプール、体育館がある。鷹女が成田にいた母を引き取りここに終の棲家となる家を新築したのは昭和二十七年。アメリカ軍に接収された土地が返還され武蔵野市役所を中心に街が整備される途上にあった頃だろう。当時、吉祥寺の人口は約5万6千人。新興住宅街として都心に通うサラリーマンのねぐらになりつつあった。標識に記載された番地にあたりをつけて表通りから左の住宅街の小道へ曲がる。地図を忘れてきたことを後悔しながら、さらに狭い路地を入ってゆく。
「俳句評論」の寺田澄史が「鷹女葬送記」に鷹女の家を探し当てるのにさんざん迷った顛末を書き綴っている。なるほど入り組んだ路地の一角にある鷹女宅を見つけるのは難儀だっただろう。目当てのバス停から五十メートルほどと書いてあったものの、いったいどの通りなのやら。このあたりはマンションや駐車場も多く、古い住宅を建て直したらしくモダンな建築の家も多い。鷹女の家も代替わりして、もとの姿はとどめていないかもしれない。
突然黒い大理石に行書体で白く三橋と彫られた表札が目に飛び込んできた。通りに面した古い母屋はしんと静まり返っている。玄関脇に四角く突き出した部分が葬儀のとき待合室に使われた応接間だろう。西に面した庭はかなり広々としていて、一人息子の陽一が薔薇を丹精し、のちにはご主人が羊歯を植えられた庭とはまさにここであろう。玄関から庭に通じるあたりの白いアーチにオレンジの蔓薔薇がほつほつ咲いているのが見える。この家は先にこの地に住んでいた建築家の加倉井秋を氏が設計したと聞いている。
ばらの如き娘のあり吾子を愁へしむ
鷹女さんとのお近づきが始まったのは、丁度、『白骨』所載の、この一句の頃からである。私と同じ武蔵野市に居を移されることになり、私のその設計を依頼したい、ということから、しばしばお会いする機会をもった。多分安住敦さんの紹介で最初は牛込のお宅でお会いしたと思う。(加倉井秋を「鷹女さんの横顔」)
掲句の娘さんは加倉井氏の二人のお嬢さんらしい。女の子を持たなかった鷹女には柔らかなほっぺを持つ愛らしい顔や優しい仕草が咲きこぼれた薔薇のように思えたのだろう。当時武蔵野には 富沢赤黄男も居を構えていたし、細見綾子も住んでいたが鷹女とは交際がなかったようだ。
「 薔 薇 」 へ の 誘 い
居を定めて武蔵野の地にようやく落ち着いた鷹女のもとへ二人の青年が訪ねてくる。高柳重信と本島高弓だった。
昭和二十八年、僕は再三にわたって鷹女を訪ね、その一年前にと富澤赤黄男を擁して創刊した「薔薇」への参加を、繰り返し要請することになった。しかし、昭和十三年に「鶏頭陣」を退いて以来、戦後の俳壇の再編成の時にもどの俳誌にも遂に参加せずに来た鷹女が、よもや僕の言葉を真剣に聞いてくれるとは、ほとんど予想していなかったのである。だが、意外なほどに、鷹女は早々と「薔薇」への参加を決意し、それから二十年近い歳月を、ずっと僕と行動を友にすることになった。(高柳重信「鷹女ノート」)
鷹女は即答したわけではない。「薔薇」は同人誌ではなく富沢赤黄男を擁する結社誌なのだ。それまで鷹女に赤黄男作品への熱烈な支持や共感があったとは思えない。奔放で自己主張が強いとは言え、今までの鷹女の俳句は従来の俳句の枠を大きく踏み出すものではなかった。赤黄男の作風を頭から浴びるとなれば、自分の身についた俳句手法を捨て、俳句自体が言葉でリアリティを獲得する場所まで歩み出さねばならない。言葉を変えて言うなら、実感と読み手の共感を下敷きに季語を中心に作る俳句から、抽象化と言葉による俳句の創造へと大きく自分の作風を転換してゆくことである。
「今度ある結社に属しようと決心したので、あなたにそれをお話しようと思うの。どこか、わかりますか」といわれた。私はいろいろな結社名を挙げたが、どれも当たらなかった。
~中略~
「どこへゆかれるのですか」と聴くと、「薔薇です」ということであった。「あなたはどう思われますか。」と意見を求められたが、当時としては、ことの意外さにしばらく返事ができなかった。いいとも、悪いとも、しどろもどろの答えをしたことを思い出す。実を言えば、その頃、酒を呑むとすぐにからむ高柳君の言動にへきえきしていたので、双手を上げて賛成する気になれなかった。(加倉井秋を「鷹女さんの横顔」)
前掲の加倉井の文章の続きに誘いを受けて迷う鷹女から相談を受けた様子が書かれている。加倉井のとまどいは当時の俳壇の一般的な見方だったろう。周囲の俳人達から見れば鷹女は山本健吉から4Tの評価を得た女流俳人のうちの一人である。「薔薇」に入ることは俳壇の名声を捨て、異端の流れに身を投じることでもあった。当時の俳壇における「薔薇」の位置について「薔薇」内部の雰囲気について、高柳重信は後年、次のように回顧している。
「薔薇」は周知のように富沢赤黄男主宰の結社雑誌であり、僕が編集した雑誌のうちで、同人誌でない唯一のものであるが、しかし、赤黄男を中心とした社内の空気は、その自由闊達さにおいて、同人雑誌のそれにほぼ準じたものであった。
~中略~
たしかに、当時のいわゆる「薔薇」一門は俳壇の一遇の、わずか一とにぎりの異端分子としてとり扱われていたし、あまり使いたくはないが、「不遇」という通俗の言葉が、いちばんぴったりと当てはまる状況下にあった。しかし、だからといって、俳壇を白眼視する小さな結束のなかで、特殊な自負心を甘やかしていたというわけでもなかったし、また、俳壇進出をねらってあの手、この手を画策するという雰囲気でもなかった。
~中略~
僕たちは、それぞれに自分自身であることに満足であったし、また、それに不満でもあった。その不満は、俳壇における自分自身の処遇の中にあるのではなく、自分自身の中にある俳句の現況について、いつも燃えさかっていたのであった。(高柳重信「宇都宮雑記」)
当時の高柳は鷹女が愛してやまない息子陽一と同じ三十歳。誕生日もわずか二日違いである。その事実を知って、運命的な出会いと感じたことも大きな要因だったかも知れない。
これは私の憶測だが、高柳は非常にストイックな作家であり妥協をしらない。その生真面目な気質が鷹女の芯にあるひたむきさと共鳴したのかもしれない。ひとたび俳句となれば社交辞令など一切交えない厳しい鷹女である。その気質が本音しか言わない高柳の真率さを直に受けとめたのだろう。
郷里の母を引き取り、居住も落ち着いたものの、神経質で過敏な感受性を持つ鷹女は五十も半ばを過ぎた自分の情熱をどこへ差し向けていいやら苛立っていただろう。ゆさはり句会で創作意欲を刺激された心は次に互角に戦える相手を求めていたのではないか。その心が高柳が熱っぽく語る「薔薇」への参加を決意させたのかもしない。
息子陽一さんの奥さん三橋絢子さんのお話によると鷹女は早世した「薔薇」の若い俳人の死をしきりに残念がり心から悼んでいたそうである。その俳人が高柳と同行した本島高弓であるなら、吉祥寺の自宅に訪ねてきたこの二人の青年俳人を鷹女は好意を持って迎え入れたのだろう。戦前から「鶏頭陣」を最後にどこの結社にも俳誌にも属さず孤高を保っていた鷹女が参加してくれるとは思っていなかった重信は予想より早く参加の返事を鷹女からもらうことになる。以後重信との信頼関係は鷹女が亡くなるまで続く。「薔薇」から「俳句評論」へと鷹女は身を寄せるべき場所と仲間をついに見つけたのだった。
「 薔 薇 」 へ の 参 加
「薔薇」昭和二十八年十一月号、編集後記には次のように記されている。
本誌から三橋鷹女さんが同人に参加された。ご承知のように三橋さんは現俳壇における女流俳句作家の最高峰の一人である。三橋さんの参加は薔薇にとっても非常に力強いものを感じさせる。(高柳重信)
この号より、「薔薇」は同人制に改編。鷹女は三好行雄 鷲巣繁男などとともに同人になると同時に編集委員になった。「薔薇」の編集は実質高柳重信がやりながらも、その運営については編集委員の会議のもとで方針を決定。協力して雑誌を盛りたててゆく体制をとる。と、編集方針が記載されている。鷹女に参加を呼びかける段階でも赤黄男を主宰と仰ぐのではなく同格の作家としての参加要請だったのかもしれない。
「薔薇」は三十二ページほどの薄い雑誌。ところどころに挿しはさまれたカットは富澤赤黄男が書いている。黄色く変色した雑誌の活字は擦れて読みにくくなっているが、随所に富沢赤黄男を中心に俳壇の俳句とは違う俳句を作り出そうとする意気込みが感じられる。鷹女の参加したこの雑誌は今まで鷹女が所属した結社や同人誌とは大きく性格が異なっていた。重信自身が述べているように「薔薇」は従来の俳句に対して一線を画する抵抗精神が根底にあること。各人各説独立独歩ながらもその中心は厳しい詩精神に貫かれていることなどなと、鷹女にとっては新鮮でありながらも自分に手厳しい脱皮をせまるものとして意識されただろう。十一月号にさっそく鷹女は作品を十句提出、富澤赤黄男とともに雑詠欄の選者にもなっている。
十章
黒鍵を打つ一匹の怒り蜂
蚯蚓跳びあがる極刑を受くるや
水中花劣等権を享け継げる
天の手芸講習了る青葡萄
生と死といづれか一つ額の花
我らが哭きがちゃがちゃが鳴き闇地獄
庭園に不向きな赤い唐辛子
耳鼻科の椅子の少年の掌に秋の蝶
小説の終りより虫鳴き始む
鴨翔たばわれ白髪の媼とならむ
最後の句は特に鷹女が気に入っていただろう句で、揮毫しない鷹女には珍しく短冊としても残っている。成田の三橋家の墓所内に小さな句碑が建てられている。
もし、この水面にいる鴨が飛び翔(た)ったならば、私はたちまちのうちに白髪の老婆になってしまうだろう。渡り鳥である鴨は編隊を組んで群れで行動する。飛び翔つときも着水するときも行動は一斉である。「鴨翔たば」、この言葉に、目の前が暗くなるほどたくさんの鴨が喧騒のうちに飛立つ様を想像させる。細かい羽毛を散らした水面の波立ちも収まり、再び静寂を取り戻した沼に残された女がたちまちのうちに白髪の老婆になっている図はおそろしい。
「媼とならむ」の措辞にはまだ若さも元気も残っているけれど、もし鴨が飛立ってしまうとたちまち老婆になってしまうだろう。不吉な予感に怯える気持ちと、どうあがいても仕方がないといったあきらめが同時的に感じられる。従来の俳句形式に馴染んでしまえない自分。そうした自分を前面に押し出し表現することへの不安と焦燥。今や鷹女は過去の名声を捨て、まったく新しい俳句への出発地点に佇んだのだった。
(つづく)
【参考文献】
『高柳重信全集』立風書房
『三橋鷹女全集』立風書房
『薔薇』昭和二十八年十一月号
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