2008-11-09

〔週俳10月の俳句を読む〕田島健一 ふたつの入り口/詮無い話

〔週俳10月の俳句を読む〕
田島健一
ふたつの入り口/詮無い話


黄鳥 くわうてう
穴に臨めば底に日の道鵙啼いて  高山れおな

俳句は一回性の文芸である。その点においては、甲子園球児と変わりない。

甲子園が、その一回性の中で多くのドラマを生み出すように、俳句もまた、一回性の中に深い味わいを醸し出す。

高山れおなさんの作品「共に憐れむ」の特徴は、そのような俳句形式の持つ一回性に応えつつ、あたかも入口がもうひとつあるような体裁を示している点にある。

<詩経「秦風」によせて>という副題。これがもうひとつの入口であり、正面口から入ろうとする読み手を困惑させる。

そして、作品に添えられた<詩経「秦風」はこちら>というリンクの先に詩経国風「秦風」が紹介されている。

読者は、ふたつの入り口の前に立たされている。

ふたつ目の入り口、それは、あたかも正面口に先駆けて存在しているように読者を威圧する。作品「共に憐れむ」は目の前に見えているにも関わらず、その傍らに示された<詩経「秦風」>を経なければ、作品に出会う資格を得られないような気にさせる。
それもこれも<詩経「秦風」>が時間的に先行している、という一種の歴史性が、あたかも「共に憐れむ」が<詩経「秦風」>の後を追うかのように思い込ませるのだ。

けれども、言うまでもなく「共に憐れむ」の作品群は<詩経「秦風」>を指示しない。この「共に憐れむ」と<詩経「秦風」>というふたつの入り口において時間は直線状に流れておらず、それらはむしろ同時に顕れるのである。つまり、<詩経「秦風」によせて>の<よせて>とは、むしろ、そこに「隣り合う」あるいは「寄り添う」くらいの意味合いだと考えるべきだろう。

一回性を生きようとする作品群を、そのリンクの先にある<詩経「秦風」>をものさしとして測ることはできないのだ。

俳句が一回性の文芸である、ということはつまり、作品中にすべてが含まれている、ということにほかならない。

穴に臨めば/底に日の道/鵙啼いて

これらの上五、中七、下五は、相互に意味という槍で突き刺しあってはいない。むしろ、それぞれの文節のテリトリーを重ねあうようにして、ほんのりと影響を与え合っているだけなのである。

この作品が、何か(「黄鳥 くわうてう」という意味ありげな前書き)を言い換える(あるいは象徴する)ように「意味」しているのではなく、この句を読んだときに読者が感じる暗さ、まぶしさ、鋭さ、といったようなもの、それがむしろ「意味」なのである。

僕たちがアメリカに行ったことはなくとも、世界の果てにはアメリカ大陸があって、けれども僕たちの見えている世界が、(アメリカ大陸を含むであろう)世界のすべてであるということを感じるのと同じように、「共に憐れむ」もまた、<詩経「秦風」>を含む文学世界全体に<開かれ>ている。

<開かれ>ている、ということはつまり「ひとつの意味に留まらない」ということに他ならない。

「共に憐れむ」の作品群は、読むたびごとにちがう表情を見せようとする。実に風とおしの良い作品である。


 

八月の蛇口をひねる水がでる  越智友亮
鰯雲ナッツは放り投げて食ふ  福田若之
水音に木槿の皺のほつれけり  加藤光彦
晴れ晴れと艦橋の立つ雁渡し  三村凌霄
ポケットの奥に十円豊の秋  小野あらら

言っても詮無い話だと思われるかも知れないが、僕も俳句をつくる身である以上、非常に手前の位置に「俳句の技術」という問題を抱えている。

純粋無垢な読者には、そのような形式ばったものは無関係であるように言われるかも知れないが、むしろ、そのような純粋無垢な読者をしばりつける「見えない力」、それが「俳句の技術」である。あなどれない。

八月の蛇口をひねる水がでる  越智友亮

「蛇口をひねる」と「水がでる」というあたりまえのことを、「八月」という日本の歴史上特別な季語を上五に置いて切り取ったことで、あたりまえでなくした。

と書くと、なんだか無難な作品評になるような気がする。けれども、それは「俳句の技術」に寄った読み(というよりも「判断」と呼ぶにふさわしい)であり、そのような読みは、跳ね返るように読み手(つまり僕自身)の元へ戻ってきて、「俳句の技術」というものにあらためて苦しめられるのである。

「蛇口をひねる水がでる」は、当たり前すぎるのではないか。いや、いや「八月の」で十分に「詠むに値する」ものへ昇華している。いやいや、それでも「八月の」では支えきれていないのではないか。とはいえ「蛇口」の「蛇」という字が「八月」という季語を象徴してくれているのではないか…

などと、つまらないところを行ったり来たりしてしまう。

ポケットの奥に十円豊の秋  小野あらら

この句は、俳句を少し長く続けている方であれば、たとえば

ポケットの奥の十円豊の秋

というかたちについても思いを寄せるに違いない。

「奥に」と「奥の」。このような「テニヲハ」の一字が短い形式である俳句においては大きな違いとなる、というのはよく言われることである。

それは「俳句の技術」という観点で、非常に重要なことである。

でも、そのような「テニヲハ」ひと文字で「変わってしまうもの」って、何だろう。

もちろん作者の小野あららさんも、無数のパターンの中から、最終的にこのかたちに落ち着かせたのかも知れない。あるいは、直感的にこの形式に決めたのかも知れない。

そのような作者の「最終的な決断」は、本当に「俳句の技術」によってのみ支えられているのだろうか。

「俳句の技術」と呼ぶ、純粋無垢な読者をしばりつける「見えない力」。これは、私たちの日常で言うところの「法律」あるいは「道徳」と似ている。

その「法律」を遵守することで、守ろうとしているものは何なのか。また、あるときは「法律」を敢えて破ってでも守らなければならないものは何なのか。

ほんとうに詮無い話だ。反省。


 ●

鳥の眼のなかのカンナを切りにゆく  鳥居真里子


こんな作品がある、こんな作家がいる。そう思うだけで、胸の芯があたたまるような、僕にとって、そういう俳句作家が何人かいる。

鳥居真里子さんは、そういう作家の一人だ。

で、ちょっと前の「詮無い話」の続き。

「法律」を守る言葉、それは、「法律」を前提とした世界では揺るがない。それは、ひとつの基準であり、拠りどころとなる。

けれども、そのような「法律」を拠りどころとする世界は、まったく基準を異にする異国の「法律」によって揺るがされる。

俳句を読んだときに感じる「ことばがうごく」感じは、そこにある。

一方で、鳥居さんの作品はそのような「法律」ではなく、何か作者自身の中になる別の「決まりごと」を守っているように感じる。その「決まりごと」が何なのか、他人にはわからない。

だから、そこに異なる基準の「法律」を持ち込むことができない。そんなことするのは、野暮なのである。

その点で、鳥居さんの作品は、粋だ。

鳥居さんの作品には、何か揺るがすことのできない何ものかがある。

…って、ご本人は、それほど大したことだと感じていない可能性が高いが。

「鳥の眼のなかのカンナ」。もう、そこから動かすことができない。うらやましくなる句だ。いいなぁ。




狐のかみそり主従はここに祀らるる  馬場龍吉


僕の記憶が正しければ、確か馬場龍吉さんは、僕と同じ町に住んでいらっしゃる。

記憶が間違っている可能性もあるが、そういうことで話を進めさせていただく。

ところで、俳句を読むときに、作者の個人的な実状を挟まないで読む、という主義の方がいらっしゃるようだが、それは、それ。

僕は、そういう実状も、挟めるときは挟んで読む。臨機応変ということで。

同じ町で暮らしているということは、同じ景色を見て暮らしているということだ。

「坂」と言えば、あの「坂」であり、「橋」と言えば、あの「橋」であるに違いない。

祭といえば「くじら祭」だし、電車は「青梅線」だし、川と言えば「多摩川」だ。

昭島市、ばんざい。

だから、馬場さんが「いざ鎌倉」とおっしゃったとき、僕は「ああ、あの鎌倉ね」と思う。

で、そこで言うところの「あの鎌倉」というのは、例えば、

 鎌倉を驚かしたる余寒あり 高浜虚子

の印象とは、かなり異なる。虚子の句は、鎌倉のうちがわで暮らす人間の句だ。

けれども、馬場さんの「鎌倉」は、

海光に浮かぶ島々鰯雲  馬場龍吉

という句にあるように、実にまぶしい。

「波音」も「かりがね」も「主従」も「衣ずれ」も。

馬場さんの「いざ鎌倉」という作品は、そのような「まぶしさ」にあふれた作品である。

そして、その「まぶしさ」は、たぶん同じ町に住む僕だからこそ、感じる部分があるような気がする。例えば、京都で生まれ育った方が、この「いざ鎌倉」という作品を読んだら、きっと違う印象を受けるに違いない。

そのような「まぶしさ」の中で、

狐のかみそり主従はここに祀らるる  馬場龍吉

という句の持つ、うっすらとした翳りに僕は惹かれた。

もちろん、そのような翳りもまた、「鎌倉」のもつ「まぶしさ」の一部である。

同じ町に、こんなに成熟した作品をつくる俳句作家がいるということに、なんだが誇らしくなる。ま、僕が言うのもなんですが。



高山れおな 共に憐れむ 詩経「秦風」によせて 10句 →読む 越智友亮 たましひ 10句   →読む 馬場龍吉 いざ鎌倉 10句  →読む 福田若之 海鳴 8句 →読む 加藤光彦 鳥の切手 8句 →読む 三村凌霄 艦橋 8句 →読む 小野あらら カレーの膜 8句 →読む 鳥居真里子 月の義足 10句 →読む

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