俳枕 丹波・氷上郡と細見綾子
広渡敬雄
丹波は、現在の京都府の中央部と兵庫県の氷上郡、多紀郡(篠山市)の旧国名で、古くから、京都と山陰、日本海と瀬戸内海をつなぐ要衝だが、山国で栗、猪、松茸等山の味覚で知られ、池田、西宮、灘の酒造元では、「丹波杜氏」が担い手となった。
篠山は「デカンショ節」の譜代青山藩五萬石の城下町で、近くには、日本六古窯の丹波立杭焼がある。
氷上郡は、日本中央分水嶺(日本海と太平洋或は瀬戸内海)で最も低い95メートルの石生の水分れで有名で、俳人では、近世女流俳人田捨女(柏原)、ホトトギス重鎮西山泊雲(市島)が知られ、同町の石像寺には、「丹波路も草紅葉して時雨して」の虚子の句碑がある。
酛唄につづくくだかけ寒造 西山泊雲
芍薬や丹波の壷のざらざらと 阿波野青畝
丹波路のここ鮎茶屋で栗の里 星野立子
篠山の朝の時雨にあひにけり 清崎敏郎
水分の神の放ちし蛍かな 山尾克代
氷上郡青垣町(旧東芦田)は、細見綾子の生地。今も白壁の塀と土蔵が印象的な実家が現存している。
綾子は、明治四十年同地の素封家に生まれ、柏原高女卒業後、日本女子大に進学。夫太田庄一と結婚後僅か二年弱で死別し、丹波の実家に戻った。
肋膜炎を患い二十二歳で松瀬青々「倦鳥」で作句を始め、三十五歳での第一句集「桃は八重」上梓。原風景である東芦田は、終生、数多くの俳句に現われる。
そら豆はまことに青き味したり 細見綾子
でで虫が桑で吹かるる秋の風
ふだん着でふだんの心桃の花
つばめつばめ泥が好きなる燕かな
だが、綾子の句でひときわ光を放つのは、第二句集「冬薔薇」の昭和二十一~二十四年にかけてであろう。
第一句集上梓後、交友を得た沢木欣一から出征直前に託された句稿を整理し、翌十九年、句集「雪白」を刊行。復員の帰途丹波に寄った十二歳も年下の沢木から、ほどなく求婚される。
受け入れるかどうかで葛藤する三十九歳の綾子の心境は、虚無感まで漂わせて凄まじい。翌二十二年鶏頭の花盛りの中、綾子はバック一つで沢木の待つ金沢に嫁いで行ったのである。
鶏頭を三尺離れもの思ふ 細見綾子
峠見ゆ十一月のむなしさに
くれなゐの色を見てゐる寒さかな
嫁ぎゆくものに雨ふる桐畑
見得るだけの鶏頭の紅うべなへり(十一月・沢木欣一と結婚)
二人居の一人が出でて葱を買ふ
雉子鳴けり少年の朝少女の朝
尚、「でで虫」の句碑は、実家近くの高座神社に、「雉子」の句碑は、綾子の母校―時計台風の旧柏原高女本校舎前庭にある。
旧柏原高等女学校校舎photo→ウィキペディア
「氷上郡」→Google マップ
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2008-11-23
俳枕「丹波・氷上郡と細見綾子」 広渡敬雄
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