林田紀音夫全句集拾読 050
野口 裕
死の際の眼鏡ひらたくたたまれる
昭和五十三年、「海程」発表句。生きている間は、顔の三次元に沿うように開かれていた眼鏡が、すでに立体は不要とたたまれようとしている。作者はそれを見つめている。かつて、自己の死に向かって
鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ
と詠んだ人が他人の死を見つめている。師の下村槐太の
死にたれば人来て大根煮きはじむ
の視点を取り戻したかのような作。
●
水飴をすこしさびしく眠らせる
昭和五十三年、「海程」発表句。すでに飽食の時代に入っている。甘味が珍重されることはない。子供がはしゃぎながら、真っ白になるまで練ることもない。想像をたくましくすれば、容器に残っているのは半分ほど。使われた半分は、にぎやかな時代に消費されたのだろう。さびしく思っているのは作者であり、水飴はあくまで静かに寝ているだけだろうが。
●
戒名の目に新しく猫通る
禽獣に眼のうすうすと星うるむ
昭和五十三年、「海程」発表句。前句に引き続き、「どうということのない」句が並ぶ。念のために鍵括弧を使っておく。けなしているわけではなく、こういう言い方が一番的確に賞賛していることになる句だと思う。特に一句目。生死の起伏を織り込んで、時間は経過する。
●
雪降らす鉄条網のかなしみに
しばらくは呪符をまじえて雪が降る
鳥獣に淡く日の降る夢のあと
落下傘ほどのかなしみ青く晴れ
昭和五十四年、「海程」発表句のうち、冒頭の四句。五七五を流れるままに読んでゆくと、下五の堰を破ってそのまま次の上五に流れてゆく。気象の移り変わりがそのまま心の移り変わりを反映しているかのようだ。この頃は、作者の内部に「死ぬかもしれない」という危機感が去ってから、かなりの年数が立っていることだろう。それに変わるものは彼の五七五の中にはない。勢い、句は外界をなでまわす。若干の焦燥感を抱きながら。
この中では、三句目の不自然な語のつながりに奇妙な味わいがある。
昭和五十三年、「海程」発表句。生きている間は、顔の三次元に沿うように開かれていた眼鏡が、すでに立体は不要とたたまれようとしている。作者はそれを見つめている。かつて、自己の死に向かって
鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ
と詠んだ人が他人の死を見つめている。師の下村槐太の
死にたれば人来て大根煮きはじむ
の視点を取り戻したかのような作。
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水飴をすこしさびしく眠らせる
昭和五十三年、「海程」発表句。すでに飽食の時代に入っている。甘味が珍重されることはない。子供がはしゃぎながら、真っ白になるまで練ることもない。想像をたくましくすれば、容器に残っているのは半分ほど。使われた半分は、にぎやかな時代に消費されたのだろう。さびしく思っているのは作者であり、水飴はあくまで静かに寝ているだけだろうが。
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戒名の目に新しく猫通る
禽獣に眼のうすうすと星うるむ
昭和五十三年、「海程」発表句。前句に引き続き、「どうということのない」句が並ぶ。念のために鍵括弧を使っておく。けなしているわけではなく、こういう言い方が一番的確に賞賛していることになる句だと思う。特に一句目。生死の起伏を織り込んで、時間は経過する。
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雪降らす鉄条網のかなしみに
しばらくは呪符をまじえて雪が降る
鳥獣に淡く日の降る夢のあと
落下傘ほどのかなしみ青く晴れ
昭和五十四年、「海程」発表句のうち、冒頭の四句。五七五を流れるままに読んでゆくと、下五の堰を破ってそのまま次の上五に流れてゆく。気象の移り変わりがそのまま心の移り変わりを反映しているかのようだ。この頃は、作者の内部に「死ぬかもしれない」という危機感が去ってから、かなりの年数が立っていることだろう。それに変わるものは彼の五七五の中にはない。勢い、句は外界をなでまわす。若干の焦燥感を抱きながら。
この中では、三句目の不自然な語のつながりに奇妙な味わいがある。
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