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2020-02-16

【週俳2020年新年詠の一句】真剣な遊び 野口裕

【週俳2020年新年詠の一句】
真剣な遊び

野口裕


正月のばば抜きは真剣にせよ  龍翔

正月、子供達が集まって遊び出すとつい度が過ぎて大人の誰かが叱声を飛ばす。そんな時に、愚生の記憶では、「ほたえるな」という言葉が登場してきたように思う。

しばしば、「ほたえな」とも。「ほたえる」は西日本各地に伝わる方言で、ふざける、甘える、つけあがるといった意味を有する。叱声の場面では「つけあがるな」 と意味がほぼ重なるだろう。

「ほたえるな」のあとに続く言葉は、「真面目にしろ」や「静かにしろ」となったが、「真剣に」とは言われなかった。

カードゲームを真剣に行えば口数は少なくなり、真面目や静かにつながるのは確かで、「真剣にせよ」は、遊びは真面目なものであるとする「ホモ・ルーデンス」をも彷彿とさせる。

遊ぶなら真剣に遊べという発想が登場してきたのは、1970年代以降と記憶しているが、「真剣にせよ」は発想の変遷を踏まえて出てきた言葉か。

あるいは、ばば抜きがカードゲームの名ではなく字義通りの意味なら、親族の誰が親の面倒を見るかと言い合う場面になる。

そうした時でも、緊張感なく冗句の応酬で実利を得ようとするのを思わずたしなめたとも読める。

「ばば抜き」に意味の二重性があることで、表面上の意味も翳りを帯びる。真剣の「剣」がちょっと怖く思えてくる。ある意味、お正月に相応しい。


2020年新年詠

2018-02-11

野口裕 酒量逓減 10句

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酒量逓減  野口 裕

山眠るLANケーブルの消失点

雪道に続く土道また雪道

風邪薬しゃりんと振って残業へ

のど飴を温めている紙懐炉

鮒去りぬ氷の下の泥煙

袋から飛び出て溝に節分豆

古草の髭根を降りて地下鉄へ

まじり合わぬ空気のかたまり春の雪

春寒や鉛筆尻の芯の欠け

水たまりこんな凹凸だったのか

2018-01-28

【句集を読む】のうのうと暮らす 野口裕句集『のほほんと』の一句 西原天気

【句集を読む】
のうのうと暮らす
野口裕句集『のほほんと』の一句

西原天気


著者略歴には「俳句」「川柳」の語はなく、「五七五狂い」とある。

のうのうと夜業半ばに髭当たる  裕

仕事はまだ終わっていないのに、その場を離れ、洗面台へ。ふつうは朝にやるはずの髭剃りを夜に。

たしかに、これは「のうのうと」である。上司がいていなくても(つまりひとりの作業であったとしても)、図太く、世の中の脈絡からはずれ、自分を楽しんでいる。

なお、「髭当たる」は、床屋で「当たってもらう」といった用法に馴染みがある。だから、自分でやる場合も、電気髭剃機よりもカミソリ刃というイメージ。それなら、なおのこと「のうのう」感が強まる。手間をかけずに手っ取り早く、ではなく、石鹼の泡まで立てているイメージ。

この句集、句集名は『のほほんと』なのだが、私には、「のうのうと」した句がおもしろかった。

掲句以外にも、例えば、

耳垢のような瀬戸物春の雨  同

叙情的でしっとりとした季語とは裏腹に、耳垢。のうのうと言い放つ。

前に言った「自分を楽しむ」という意味では、

戻り賀状の文面を読み返す  同

もそうだろうか。自分で書いたものにわざわざ目を通す。すっとぼけ感も加わり、滋味のある句。


ちなみに、私自身、のうのうと暮らしたい、生きたい、と望みはするが、スタイルは自分でどうなるものでもない。


野口裕句集『のほほんと』(2017年12月10日/図書出版まろうど社)

2016-08-14

【週俳7月の俳句川柳その他を読む】野口裕 ですですですますますます 

【週俳7月の俳句川柳その他を読む】
ですですですますますます

野口 裕


毛皮の空洞からもれる細い目 竹井紫乙

昔、川柳「バックストローク」大会でのシンポジウムテーマが「悪意」だったことがあります。この句で、それを思い出しました。
細い目だからと言って「悪意」があると決めつけるわけにもいかないでしょうが、毛皮と合わせると、ちょっと怖いキャラクターを想像させます。

砂時計のくびれを落つる蛍かな 遠藤由樹子

蛍と作者が同一化してゆくような自己愛の一過程でしょうが、いっそ砂時計中の砂一粒ひとつぶがすべて蛍だと思ってみましょう。
虚空に浮かぶ巨大な砂時計に閉じ込められた蛍の群れが光りながら滑り落ちてゆく。なかなか壮大です。

ボルゾイの匂へる梅雨の真昼なる 野口る理

ボルゾイはロシアのオオカミ狩り用猟犬とのこと。特集「BARBER KURODA」から、よくそんな犬が連想されたと妙な感心をしました。

アーモンドバターひと瓶費やして結い上げられた甘やかな髷 石原ユキオ

丁髷を結っている若い人を電車で見かけたことがあります。月代も綺麗に剃り、見事なものでした。惜しむらくは、液に浸かりすぎた明太子のように、髷がくたっとなっていたことです。アーモンドバターを使えばよかった。

翠陰か不意なるナイフ簡易椅子 井口吾郎

回文とは不思議な言葉遊びです。
句を声に出して読み、録音した物を逆再生しても元には戻りません。日本語の最小表現単位である、ひらかなまたはカタカナで綴ったものを逆から読めば元の句がようやく再現できます。
「翠陰」をどう読むのか一瞬迷いましたが、「簡易椅子」を逆から読んで「スイイン」と読むのだと分かりました。便利なところもあります。
ヤーさんになってしまったり、パンチパーマが安かったり、急にナイフが出てきたりと、ここまで「BARBER KURODA」は怖いところのようです。

黄泉の国に点々とスターバックスが並ぶ風景 いつかきた道 黒田バーバー:柳本々々

ついに、死者が出てきたようです。
作者名を:で繋ぎましたが、べたに=の方がよいかも知れません。古典の世界なら詠み人知らずの歌を特定の他者に仮託するのは、よくある話ですが、現代でそれがうまく行くかどうかは微妙。裏で糸を引く々々さんが見えています。

マンホール叩いておりし神無月 曾根 毅

特集だからと言って複数の句を連ねる必要はありません。ですが、物足りなく見えるのも事実。読者としては、作者が何句も書いて、残したのがこの一句と思えばよいでしょう。残らなかった句群を想像しつつ。

木の下に田中あまがえるがそよぐ 福田若之

日本語の名字は、○○の中とか、□□の上とか、ご先祖が住んでいた場所を指し示すようなのが沢山あります。田中さんの家は田んぼに取り囲まれていたのでしょう。引越が繰り返されている内にそんなことは忘れ去られ、誰も何も感じないでしょうが。
だから、田中さんは田んぼと何の関係もないのか?それがそうとも言い切れない。
句では、木の下(これも名字みたいでややこしい)に田中さんがいて、田中さんは田の中で、そこにあまがえるがすいすいと泳いでいる。
まるで、田中さん自身が田んぼのようで、田中さんの体内の田んぼにあまがえるが存在するような錯覚に陥り、落語の「あたま山」と似た世界が広がります。「一歩ずつ田中にあめんぼがさわぐ」も同工。表題の「田中は意味しない」を額面通りに受け取るのは無理のようです。

終バスの煌々とあり夏は来ぬ
アート紙にかすかな湿りその一枚一枚に棲む浅丘ルリ子 西原天気

有名人の人名入りの短歌を基盤にしつつ、五七五をそこに打ち込むという凝った造りです。表題「かの夏を想へ」が、小野茂樹風でもあります。そこに終バスと来れば穗村弘と、さらに話は複雑になる。浅丘ルリ子からは、日活映画あるいは寅さんと連想が広がる。ひとつひとつの語を丹念に拾ってゆけば相当の字数を費やしてしまうことになるでしょう。
したがって、濃厚な味わいの取り合わせに、「夏は来ぬ」というさっぱりした措辞を効かせることで全体を引き締めていると、料理レポーター風にまとめなしゃあないのです。

列の崩れて湧水に触れてゆく 村田 篠

何の列かは分からないが、炎天の最中にじりじりとしか進まない列が途中で崩れています。そこら辺りだけが、鬱陶しさを忘れて若干はしゃぎ気味。湧き水のせいかと、列がそこまで来て納得する作者もまた、その瞬間だけは列のことを忘れています。読後に清冽な印象が残ります。

夏団地食卓塩のびんの肩 上田信治

夏団地と言われただけで、深夜にしか帰ってこない夏休み中の中高生や、親の方も夜に居たり居なかったりの崩壊している家庭を思い浮かべてしまうのは、ある種の映画や小説の読み過ぎかも知れません。
ですが、こう書かれると、帰宅したときに迎えてくれたのが食卓塩だけだったようにも読めます。梅干しではなく、食卓塩。これが現代の家庭像でしょうか。


遠藤由樹子 夏の空 10句 ≫読む
竹井紫乙 ドライクリーニング 10句 ≫読む
特集 BARBER KURODA ≫読む
福田若之 田中は意味しない 10句 ≫読む
西原天気 かの夏を想へ ≫読む
村田 篠 青 桐 10句 ≫読む
上田信治 夏団地 23句 ≫読む

2016-01-17

【週俳12月の俳句・川柳を読む】野口裕 週俳12月の五七五を読む  

【週俳12月の俳句・川柳を読む】
週俳12月の五七五を読む

野口 裕


参考のためと、上田信治さんの文章を読みながら、

小唄のような軽い詠みぶりで魅せることの多い作者ですが、掲句のような、感覚的実質があってなおかつ簡単に尻尾をつかませない取り合わせを見ると、なるほど長谷川櫂門下の人だなあと。(西村麒麟の項)

というような書き方は、どうもできそうにない、と気づいた。我が文章は、近頃の読む量の不足のせいか、五七五の外側におかれている作者名に踏み込んだ読みに届かないのだ。

飯田龍太が、「俳句は無名がよい」とか言ったようだが、五七五の外側にある自身の名が消せないことに対する無意識の嘆きのようにも取れて面白い。ではあるが、作者名のある以上、その名を意識しつつ十句に向かい、作者の性向を承知した上で一句に対する鑑賞をするのが常道と思う。現状ではそれができそうにない。

作者名とてテキスト。無視は出来ない。しかしそれを外し、さらに一句の外にある九句を捨てた上でのテキスト鑑賞になるかと思う。ご容赦願いたい。


●月曜日の定食  相子智恵


月曜のB定食の牡蠣フライ

A定食よりもB定食の値段が高いこともあるが、週初めの月曜日には散財を避けるだろうから、この場合は安いB定食を選んだと言うことか。Bを選んだら、たまたま牡蠣フライだった、という風に語順が並んでいるところに昼食に対する期待値の低さが見て取れる。

この牡蠣フライはおいしかったのかどうか?案外実直な定食屋さんで値段の割りにはおいしかったかも知れないし、安かろう悪かろうで胸焼けを抱えつつ午後の仕事に立ち向かう羽目に陥ったのかも知れない。その辺は、読者一人一人が想像して下さい。そんな口ぶりでテキストは突然終了する。牡蠣のまとう衣に、油がきらきら輝く様が読者の脳裏で閃けば句としては成功か。


●水曜日の変容  関悦史

宇宙終はればまた始まりて鳥兜

ツイッター、フェースブックともに性に合わず、使い慣れたmixiにときどき日記を載せている。たまたま、この句に関する感想を書いた。そのまま、転載する。

そりゃわからんぞ、と思わずつぶやいていた。
しかし、ブラックホールという概念を初めて知ったときに、強烈な違和感があったものが、それとは逆発想の上揚句に違和感を感じるようになるとは!
感覚は長い年月の間に振動する。ニュートリノではないだろうが。


●兼題「金曜日」  樋口由紀子

金曜日に立ち寄ってから参ります

書類の届くのが遅いので、先方に問い合わせるとこんな返事。立ち寄り先がどこかは分からないが、こちらが怒り出しても不思議はないほどに誠意がない。参ったあとは勤務先には戻らずに、さっさと帰宅するのではないかと思える軽薄さ。社から配られたはずの電話応対のマニュアルはどこかにしまい込んでいると見える。

しかし、こんな風に言えれば良いなと羨望する人も多いのではないか。金曜日がパラダイスを秘めているからこそだろう。


●壮年の景   角谷昌子

ぬつそりと獣道から冬帽子

獣道から出てきた割りには、登場人物に危険性を感じない。長いテキストなら、おもむろに出てきた登場人物が豹変することも可能だが、句頭の「ぬっそり」というオノマトペが全体を支配して、人物の動きは悠揚迫らぬ態度に終始するようだ。

獣として少々防寒能力の不足しがちなヒトに、冬場の帽子はあった方が良い。しかも、重要部位の脳を保護してくれる。句は、動物園の檻の中の肉食動物を見るかのように、ヒトが動物であることに思い至らせ、なおかつやはりヒトは人間であることを指し示す。


●以後   太田うさぎ

闇鍋の蓋の大きな明石かな

明石で暴力団の大きな抗争でもあったかいな、とも思ったがどうもピンとこない。返って、「源氏物語」に出てくる明石の入道でも思い浮かべた方が、私的にはしっくりとくる。光源氏を遇するに当たり、相当の資産を明石の入道はつぎ込んだはずで、その資産は多少後ろ暗い面も秘めていたのではないか、というような当方の勝手な思い込みに、闇鍋が応えてくれそうに思うからだ。

まあ、穏当なところは、芭蕉の蛸やら永田耕衣の鯛などが雑然とぶち込まれているのだろう。カタツムリも入っているかも知れない。


●狐罠   西村麒麟

水浅きところに魚や夕焚火

暮れかかっている水辺の魚など、普通は気づかない。しかし、焚火は水底を明るく照らし、小魚の影までもくっきりと映し出す。寒々とした水辺と見えたときには濁って見えた水も、今は澄んで見える。焚火が魚だけでなく水の清らかさまでも明らかにしてくれた。焚火がもたらす暖かさとともに、魚や水までもが刹那の幸福感をかき立てる。

とまあ読みはこのようになるが、作った点も感じる。おそらく「ところに」とある措辞のメリットデメリットなのだろう。ゆるやかな句跨がりが幸福感をかき立てるような穏やかなリズムを作り、なおかつ水深いところの闇をも暗示させる点がメリットとすれば、少し押しつけがましくなるのがデメリットだろう。

しかし、書き割りめいたところを差し引いても、句の世界は読者に羨望を与える。何尾かは、焚火にあぶられているのだろうか。


第451号 2015年12月13日
相子智恵 月曜日の定食 10句 ≫読む
関 悦史 水曜日の変容 10句 ≫読む 
樋口由紀子 兼題「金曜日」 10句 ≫読む
第452号 2015年12月20日
角谷昌子 壮年の景 10句 ≫読む
太田うさぎ 以 後 10句 ≫読む 
西村麒麟 狐 罠 10句 ≫読む

2015-06-14

【週俳5月の俳句を読む】野口裕 理想郷

【週俳5月の俳句を読む】
理想郷

野口 裕


著莪の花名刺の角の疲れたる   森島裕雄

著莪はにぎやかな場所に咲く花ではない。人気の少ないところで始まる商談は、どんな話が行われているのかと、想像をかき立ててくれるが、ピンと張りきった名刺ではないところを見ると大した話でもないのだろう。
著莪とくたびれた名刺への視点移動が、仕事の風景を効果的に見せてくれる。


しかすがに満洲じこみ親不知   武藤雅治

井上ひさしの戯曲『きらめく星座』での幕切れ近くに、宮沢賢治を愛する登場人物が満州に移住しようとする場面がある。
角川の「短歌」が宮沢賢治の短歌の特集を組んだ際にも、もし宮沢賢治が生きていたら満州を賛美していたのではないか、とする発言が座談会に記録されている。発言したのは井上ひさしではないが、彼はその発言を肯うだろう。
宮沢賢治に代表される、理想郷を希求する純粋な情熱は、ややもすると現実の行動のバランスを失する。同郷の詩人を愛する井上ひさしは、そこまでを織り込んで登場人物の造形を行っている。
他国の土地に踏み込んで理想郷を作り上げようとする異常な情熱を肯定できるものではないが、そうまでして現実を脱却したいという願いは分からないでもない。痛ましい理念のあり方と言える。
上揚句は、痛ましさの名残が奥歯に残っているようだ。「しかすがに」が、すべてを了解した上で句を包み込んでいる。


夏蝶の踏みたる花のしづみけり   村上鞆彦

産卵前か。生きていることの重みに重力あることの不思議。


第420号 2015年5月10日
森島裕雄 色見本帖 10句 ≫読む
五十嵐秀彦 眠 る 10句 ≫読む

第421号 2015年5月17日
武藤雅治 アジアへ 10句 ≫読む

第423号 2015年5月31日
村上鞆彦 ぐるり 10句 ≫読む
下坂速穂 水 脈 10句 ≫読む

2014-08-03

【週俳7月の俳句を読む】 野口裕 気ままな感想など

【週俳7月の俳句を読む】
気ままな感想など

野口 裕



日々を或る小岱シオンの忌と思う  福田若之

ちょっとびっくりした語が最後の方に。「…なんというか、あらゆる物語の背景にいそうな人で、僕には、トロイにも、ナルニア国にも、ウクバールにも、ボードレールのパリや福永耕二の新宿にも、書かれていないだけで、本当は彼女がいるように思えてならない。」とあるところ。私はてっきり男だと思っていた。


このくらゐに豚がしておく西瓜割り  荒川倉庫

思い出したのは、吉村益信の作品「豚;PigLib」。自虐・ユーモア・批評性に共通点がある。句は、池乃めだか風言い回しが効果的。


火が草へうつり西日にとけこめり  鴇田智哉

認識は常に「何か」についての認識で、必ず「何か」が必要になる。と言うようなことを昔何かで読んだようなうっすらとした記憶がある。鴇田智哉の句は認識の対象をゆっくりと移ろって行くような印象を与える。その対象が句末にぴたりと止まるかというと、そうでもなく、また移ろっていくような気分が読者には残る。何かを抜きにした、認識についての認識を求めて彷徨するかのようだ。動詞や助詞がひらりひらりと裳裾のようにまとわりつくのは、「認識についての認識」という得体の知れぬものがちらちら見え隠れするからだろうか。


錯乱といふもの百合の花の底  西原天気

花底には大抵蜜があるが、百合、特に大ぶりのカサブランカなどでは、ここにありますよと言わんばかりの大玉を光らせている。昆虫がそれをめがけて突っ込むと、粘度の高い花粉が昆虫の体のあちこちにまとわりつく。昆虫にとっては錯乱だろう。
ところで、百合といえば女性を連想させるが、やっかいなものは雌しべではなく雄しべの方だというのも面白い。服などがうっかり雄しべに触れると、拭き取ることはまずできない。百合を活ける場合は、雄しべを抜き取ってしまうのが通例(https://www.nihon-sogo-engei.com/ashirai/cat66/post-9.php)らしい。配偶者もよく花を活けるが、百合の雄しべは必ず取っている。ということは、活けられた百合は去勢されているということになる。句中の百合は、去勢の百合か、両性具有の百合か。
どうも話が混乱してきた。これも句の仕掛けた罠かもしれない。


いつもある木に触れてゐる遠花火  木津みち子

どの句をとっても、対象への視線に揺るぎがない。座禅がすんで半眼を解いた際に、外海の光が覚醒を伴って一気にやってくるときがある。何もかもが揺るぎなく存在していることを認め、祝福したくなるような気分。そんな気分にあふれている。座禅では、寺の事情がほの見えて若干の苦みが生じることがあるが、五七五ではそれがない。


広場なき国(くに)主権者蛇となり巻きつく  関悦史

一見、主権者が勇ましく見えるが、巻きついても手ごたえなくおのれに跳ね返ってくるのがむなしさだけである、とするのが隠された句意だろう。十句は、かつての社会性俳句を彷彿とさせるが、この句の場合下敷きにしたのが赤尾兜子の句、

  広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み
  音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢

の二句。かつてと決定的に違うのが、「広場なき国」とする現状認識にある。


官邸囲み少女の汗の髪膚ほか  関悦史

甘さ抑えたスイーツというところか。同じスイーツ系に属する

  縄とびの純潔の額を組織すべし  金子兜太

と比較して、山本健吉が書いた、

作者の「態度」は現れていても、一かけらの詩もない。舌っ足らずのイデオロギーはあっても、現代を深く呼吸した「思想」というべきものはない(赤城さかえ「戦後俳句論争史」の引用による)

という批判を乗り越えようとする意志は現れている。ただ、やっぱり甘いかな。


第376号 2014年7月6日
木津みち子 それから 10句 ≫読む
関悦史 ケア二〇一四年六月三〇日 - 七月一日 12句 ≫読む
第377号 2014年7月13日
西原天気 走れ変態 9句 ≫読む
第378号2014年7月20日
鴇田智哉 火 10句 ≫読む
第379号2014年7月27日
荒川倉庫 豚の夏 10句 ≫読む
福田若之 小岱シオンの限りない増殖 10句 ≫読む

〔今週号の表紙〕第380号 野口毅個展 野口裕

〔今週号の表紙〕
第380号 野口毅個展

野口裕


二年に一度の野口毅の個展も第七回目を迎えようとしています。何分、本人は言葉の不自由を抱えているために個展への意気込みや画業に対する思い込みを表明するのも、口少なですが、時折発する単語の端々に意欲を感じ取れます。

日常生活で感じ取った外界の印象や、恒例となった冬の奄美諸島における取材旅行からの印象をもとにした抽象画が、中心となりますが、本人は具象的に描いているつもりなのかも知れません。それを証明するかのように、今回は動物を描いたシリーズや一目瞭然の円錐形山容を描いたものも登場します。

物の見え方が常人と異なっているのかどうか、それは個々の人が具体的な作品から感じ取っていただきたいと思いますが、色の乱舞といえる様々な色のバリエーションを駆使した作品から、色の哲学的考察と思える一つの色の階調を極めつくそうとしているような作品、あるいは色を重ね削りという作業自体が雄弁に語りかけている絵画まで、すべてが野口毅という個を通過して発しています。

今回の個展も、前回を越えて技法面での成長が見られると思います。取材云々は別にしても、神戸に野口毅という若い画家がいることを確認する機会として、足を運んでいただければ幸いです。


野口毅 プロフィール
http://art-express.co.jp/guide-net/noguchi/1.html

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野口毅 個展
2014年8月5日(火)~10日(日)
11:00~19:00(最終日17:00まで)
ギャラリーミウラ北野坂 神戸市中央区中山手通1-8-19
※野口毅画集V 同時発刊
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週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫
こちら

2014-04-06

林田紀音夫全句集拾読 310〔最終回〕 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
310〔最終回〕

野口 裕






漏刻の或る夜はじまる雨の音

平成八年、未発表句。前年の未発表句に、「漏刻の或る夜だれの夜もまじる」があり、平成九年、海程の「取りとめもない雨終の小糠雨」が海程発表句の最後となる。漏刻二句は変貌前の姿か。時を刻むような雨音が、自身の終の姿の暗示と聞こえてくるのだろう。

 

空缶の幾つ冥土の方に立つ

平成八年、未発表句。全句集最終句のひとつ前の句になる。平成九年の海程に、「空缶のいくつ冥土へ連らなる色」とあるので、その推敲前の句形と考えられる。花曜発表句には、類形がない。冥土の道案内に空缶を選ぶところ紀音夫らしい。

 

白昼の空の紺その裾切られ

平成八年、未発表句かつ全句集の最終句。「切られ」に万感の思いを託す。

年譜には、「この年をもって句作を中止する」とある。発表句は平成九年まで続く。海程発表句の最終が「取りとめもない雨終の小糠雨」、同年花曜の最終が「夕闇の刻々声の方角に」。没年は、平成十年。

疑問が二つ。ひとつは、三句の内でどれが本当の最終句になるのか、ということ。延々と読み続けてきた心情から言えば上揚句が最後と思いたいが、一日の時の流れから見れば花曜か。

もうひとつは、句作を絶ってから、いかなる心境であったかということ。これは飯田龍太にも同様の疑問が浮かぶ。長年にわたって培った習性は、おのずと折に触れての五七五を引き出すだろう。脳裏に浮かんだ句を句帳に書き付けることなく封印するに、容易であったか、抑制する意思が必要であったか。容易であるにせよ、抑制していたにせよ、座の文学と言いながらも、個に戻る時間の必要な現代における俳句のありようを、逆に照射しているか。


年譜および巻末の福田基氏の解説と編集後記については、折りに触れて書いてきた。一冊の本を咀嚼する作業はこれで終わる。

咀嚼し終わったあとの一言が、テレビのグルメリポーターの良否を決めるように、本全体を見通した一言が必要かも知れない。しかし、思いつかない。まさに、

  隅占めてうどんの箸を割り損ず

というところか。

2014-03-30

林田紀音夫全句集拾読 309 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
309

野口 裕






市民課の壁の矢印増えて行く

平成八年、未発表句。発表句では平成八年「花曜」に、「市民課へ矢印電話途中で切れ」。矢印は、地震後の行方不明者の消息や避難場所を示すものかと想像する。震災関連句に挟まれているために、これもそうだと推定は出来るが、単独に取り出すと、市民生活を管理する役所という風な別の解釈も可能となる。

知人の消息を確かめるために役所に出かけたが、問い合わせる人でごった返していて何がどうなっているのかさっぱり要領がつかめない。とにかく避難者の消息を示す掲示をていねいに調べるしかない。大阪に転居した人はあちら、和歌山はこちら、まだ避難所にいる人は向こうの壁、という風に。壁に貼ってある矢印にしたがって、あちこちを読んでみたが途方に暮れそうになる。矢印が悪意の塊に見えてくる。以上、当方の想像を書いてみたが、もちろん想像でしかない。

 

解体家屋の未練とりどり土埃

家つくる音していまは釘打つ音


平成八年、未発表句。震災関連句の最後の二句。発表句では、「解体家屋の悲喜とりどりの土埃」、「家を組む木の音いまは釘打つ音」(平成八年「花曜」)となっている。一句目は、「悲喜」よりは「未練」の方が良いだろう。「悲」はともかく、「喜」が想像しにくい。二句目は、発表句よりも簡単な構造にすることにより、槌音を効果的に演出する。

いずれにしろ、これで彼の震災に関する発言は終了する。平成八年の未発表句も、残り三句となる。

2014-03-23

林田紀音夫全句集拾読 308 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
308

野口 裕






数条の震禍の煙日と倶に

平成八年、未発表句。紀音夫作句の最終年、冒頭の句。新年を言祝ぐ句はない。

四季の随順と無関係に起こった事件は、それが心の内から去らないうちは、四季の運行を忘れさせる衝撃力を持つ。一月と聞けば十七日、その前にある正月などはどうでも良い。そんな気分があっただろう。

直接的には地震後の火災を俯瞰した光景を描写したものだろうが、日に陽光と日数の両様の意味があるのを勘案すれば、時を経ても煙の上がる光景が脳内に巣食って去らない心境の吐露でもある。

 

震災の供華ぽつねんと昼また夜

平成八年、未発表句。

一年の推敲を待ってから誌面に発表するのが、紀音夫の発表態度である。ところが、平成九年の花曜、海程のいずれにも震災関連の句は発表されていない。平成八年に作成した震災関連句は封印されていたことになる。いかなる心境であったかは想像しがたい。

上揚句は、倒壊家屋の瓦礫の前に置かれた花を思い浮かべれば、「ぽつねん」という一語がよく働いているとわかる。供華はすでに枯れているか。


残骸としてクレーンの爪傷む

平成八年、未発表句。瓦礫を片付けるべきクレーンもまた傷んでいるということか。あるいは、工事現場で激震に遭ったクレーンが転倒したまま放置されているのか。個人的には、阪神淡路大震災によってバブル崩壊を決定づけられたような印象もあるので、後者の解釈は棄てがたい。

もっともテキストに即せば、震災と関連しての解釈から離れての読みも成立する。上揚句の前後に震災関連句が並ぶのでどうしても引きずられるが、役に立たなくなったクレーンの即物的な表情と見るのも味わいがある。トリビアリズムと揶揄されることの多い紀音夫の一面が、ここでは有効に働く。

 

激震の未明よりおびただしき鴉

激震の家屋生木を裂くに似て

平成八年、未発表句。最後の年となる平成八年の未発表の句数は十一句。平成九年に海程、花曜に発表した八句と十句を平成八年に作成したと考えても全部で二十九句。そのうち八句が震災関連句。

激震という語を使用した句は、平成八年の海程と花曜に、

ああと鴉海を近くに激震後(「海程」)

鉄筋の棘忽然と激震地(「花曜」)

仏壇も瓦礫の類い激震後(「花曜」)

の三句がある。地震のもたらした衝撃を、体感を伴ない蘇らせてくれる言葉として多用したのだろう。

さきほど、朝日出版社の「悲傷と鎮魂-阪神大震災を詠む」をざっと読み返してみたが、激震を使用した例は少なく、「激震の神戸の街よ火の街よ」(大高弘達)を見つけただけだった。紀音夫らしく、ひとつの言葉を見いだし、それに固執して作句しようとしたのだろう。

2014-03-16

林田紀音夫全句集拾読 307 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
307

野口 裕






倒壊の壁や柱に誰の傷

平成七年、未発表句。倒壊家屋を主題とする発表句は、「倒壊家屋の暗部の脆さ引き当てる」(平成八年、「海程」)、「倒壊家屋の暗部より罅陸続と」(平成八年、「海程」)、「倒壊の家屋生木を裂く部分」(平成八年、「花曜」)の三句。「解体家屋の悲喜とりどりの土埃」(平成八年、「花曜」)という句もあるので、家屋の解体作業に遭遇しての句と見てよい。

未発表句は、「誰」が分かりにくいが、自身の傷心をまざまざと見る心地がしての反語か。

 

折々は震災以後の空まぶしむ

平成七年、未発表句。震災に取材した平成七年の未発表句は十八句ある。その最後が上掲の句。次の「雲の流れる昨日の今日のサングラス」とセットとも取れるが、一応別景としておく。晩年に訪れた悲惨な状況から辛うじて抜け出した感慨は、「空まぶしむ」としか言いようがなかっただろう。

 

帆走のこがらしいつの夜よりか

平成七年、未発表句の最後。次の年に句作を絶つ。平成八年の海程に、「何処をどう歩いて海のこがらしか」。最後まで発表は一年を経てからの姿勢を貫いている。

2014-03-09

林田紀音夫全句集拾読 306 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
306

野口 裕






倒壊の壁や柱に誰の傷

平成七年、未発表句。倒壊家屋を主題とする発表句は、「倒壊家屋の暗部の脆さ引き当てる」(平成八年、「海程」)、「倒壊家屋の暗部より罅陸続と」(平成八年、「海程」)、「倒壊の家屋生木を裂く部分」(平成八年、「花曜」)の三句。「解体家屋の悲喜とりどりの土埃」(平成八年、「花曜」)という句もあるので、家屋の解体作業に遭遇しての句と見てよい。

未発表句は、「誰」が分かりにくいが、自身の傷心をまざまざと見る心地がしての反語か。

 

折々は震災以後の空まぶしむ

平成七年、未発表句。震災に取材した平成七年の未発表句は十八句ある。その最後が上掲の句。次の「雲の流れる昨日の今日のサングラス」とセットとも取れるが、一応別景としておく。晩年に訪れた悲惨な状況から辛うじて抜け出した感慨は、「空まぶしむ」としか言いようがなかっただろう。

2014-03-02

林田紀音夫全句集拾読 305 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
305

野口 裕





震度7未明の手足まだ緩み

ヘリコプター浮遊体感余震生み


平成七年、未発表句。

まず、前項の補足。発表句では、「余震の夜へ枕木を踏み人の列」(平成八年「花曜」)と姿を変える。

あのときの当方の住んでいる地域の震度は5弱。震度7がどの程度なのかは想像の域を出ない。しかし、この二句を読むと、手足の緩みや浮遊体感は、急激な上下動がまさに「足が地に着かない」感覚を引き起こしたのだと分かる。発表句ではと読み返してみたが、浮遊体感は体感余震となるが、

    体感余震暫くは海切切と
    体感余震火と水を使うとき
    水の来ている午前体感余震の辻
    体感余震たびたび死者の翳を踏み(以上、平成八年「花曜」)

と、その時の余韻を引いてはいるが微妙に異なる。海程発表句にこの語が登場しないのも、特徴的である。

またヘリコプターも、「ヘリコプター凶器余震と共に来る」(平成八年「花曜」)となって、とらえ方は相当に異なってくる。

一瞬にして起こった異常体験を、体感を伴って句に定着させることは紀音夫ほどの技量を持ってしても至難の業であるのだろう。

2014-02-23

林田紀音夫全句集拾読 304 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
304

野口 裕





炊き出しの列に眼鏡を拭いて待つ

平成七年、未発表句。発表句では、「炊き出しの昼来て逃げ場ない煙」(平成八年「花曜」)、「午後になる炊き出しの湯気ひとの息」(平成八年、「花曜」、「海程」)の二句。三句同時作成で、二句を選出し、一年後に発表という段取りである。

地震後すぐに発行された、朝日出版社の「悲傷と鎮魂−阪神大震災を詠む」(1995.4.20)には、寄稿していない。寄稿しようとすれば出来るだけの句量があったのは明白であり、寄稿はしないという意思があったはずだ。地震があった平成七年当時の「海程」、「花曜」の発表句も、地震とは無関係の句で前年の入院時の体験と推定できる句ばかりである。

三句を比べてみると、未発表句は最も平板かもしれない。しかし、滋味が最も味わえるのも未発表句とも言える。「ひとの息」は、まあいいとして、「逃げ場ない煙」は思い入れ過剰と見えなくもない。

ありあわせの布で拭く動作とともに、炊き出しの湯気と共にやってくる暖かな食べ物の匂いを、嗅覚はすでにとらえていることだろう。人の群れが近いようで遠い。

2014-02-16

林田紀音夫全句集拾読 303 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
303

野口 裕





給水車来ている呉越同舟で

平成七年、未発表句。震災当時、給水車は近隣の府県はいうに及ばず、「全国44都道府県,7587事業体から給水車 757台が派遣され,自衛隊からは給水車270台,船舶 11箆が応急給水に当った。」と、検索してみると出てくる。

普段は仲の悪そうな自治体同士の給水車が轡を並べていたのだろう。ナンバープレートを見比べて、笑みとともに飛び出した軽口が句になった。状況が状況だけに、ある意味貴重である。

2014-02-09

林田紀音夫全句集拾読 302 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
302

野口 裕





薄明の身を病んで苛性ソーダの艶

平成七年、未発表句。「苛性ソーダの艶」が分からず、消毒薬のクレゾールあたりのことを仮にそう呼んだのかとも思ったが、どうも釈然としない。

ウィキペディアの「水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)」にあたってみると、「パン、スナック菓子のプレッツェルの生地を水溶液に浸けて、表面のつや出しと食感改善にも利用されている。ただし、高温(170°C前後)で焼かれるため、炭酸ナトリウムに変化し製品には残らない。」との記述がある。これだろうか。

震災当時、被害が大きかった地域から、比較的被害の少なかった我が家に色んな人がちょくちょく訪れた。復旧している水道を使っての洗濯と、これも復旧しているガスを使っての暖かな食事を求めてのことだ。そして、お土産として非常用に配られた菓子パンをよく頂いた。毎度毎度の食事を菓子パンで済まさざるを得ないのは、かなり味気ないものだという話もよく聞いた。

もし、この句の「苛性ソーダの艶」が「パン、スナック菓子」の艶であるなら、前年に入院していた身には耐えがたく思われたに違いない。さらに想像をたくましくすれば、配給された食品がプレッツェルの一種である「プリッツ」(ポッキーのチョコレートをかけていないやつと言った方が分かりよいか)であれば、彼の痩身さえもが想像されるような気がする。

いずれにしろこの句の場合、「苛性ソーダ」の「苛」が句の効果を最大限に引き出してはいようが、「苛性ソーダ」が何を指すかは分かりにくい。発表句に選ばれなかった理由の一端ではあろう。

2014-02-02

林田紀音夫全句集拾読 301 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
301

野口 裕





朝からの雨の遙かを給水車

平成七年、未発表句。不思議なことにネットの時代になると、私のようなものぐさでも、この句の出来た日が特定できる。当時の天候記録も紀音夫の 住んでいた芦屋市の水道が復旧するまでの期間(六週間)もネットから拾える。両者をつきあわせると、朝から雨の降った日は一月二十二日しかない。当日は日 曜日に当たるが、あの混乱の中では曜日は関係なかっただろう。

雨の中で、飲み水を確保するための給水車を待つ。皮肉な状況だが、遠くから豆粒のように見える給水車が待っている身にはじれったく見えただろう。

2014-01-26

林田紀音夫全句集拾読 300 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
300

野口 裕




護符いくつ貼る朝より晴れた空

平成七年、未発表句。千社札を見ての景。護符という言い方に人がそれに託した願いを想起させるものがある。平成八年「海程」発表句に、「日暮れまで人は行き来の千社札」。


水運ぶ十日戎の屋台まで

平成七年、未発表句。神社の境内に、外の路上にと屋台が渦巻くほどに十日戎は賑やかである。もちろん水道が引かれているわけでは無いので、屋台まで人が水を運ぶのであろう。喧噪の中で黙々と(あるいはきびきびと、だろうか)働く人を見つける紀音夫の眼のつけどころは、第二次世界大戦後を生き抜いた生活人のものである。

 

震災の夜へ枕木も兵馬の翳

平成七年、未発表句。「阪神淡路大震災」の詞書き。この句以降の十七句は、すべて震災関連句である。平成八年になってからの発表句の多くも震災関連句であり、制作年が一年遡ると推定される。甲子夫が大きな衝撃を受けたと想像するのはたやすい。

上掲句からは、地震直後に交通網が寸断され、多くの人が線路を伝い歩いたことが思い出される。枕木の上を歩く人に自身の戦争体験を重ね合わせているのだろう。

2014-01-19

林田紀音夫全句集拾読 299 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
299

野口 裕




さくら降る錻刀を叩く音つづき

平成六年、未発表句。この年はさくらの句は葉桜の二句を入れても八句。やはり入院もあって少ない。上揚句は、錻力かと思ったが、錻刀。これもまたブリキと読むようだ。いらいらするような音の続く中を散り急ぐさくらの景は、そのまま紀音夫の体調・心境とつながる。

 

打水のところどころに男女立つ

平成六年、未発表句。男女の間に関係はないのだろうが、書かれてしまうと関係があるように読めてしまう。作者も読者も嘘と分かって楽しむ。打水だから、それほど熱した関係にはおちいらないはずだ。

 

年終る朝から夜へ海荒れて

平成六年、未発表句。平成六年は句数が三十五句、一頁余と少ない。前掲句から秋を飛ばしたことになるが、特に取り上げる句もなさそうだ。やはり、入院が響いていると思われる。上掲句がこの年の最後の句。そして、平成七年初頭に阪神明石淡路を襲った地震に遭遇することになる。

 

数条の水となり道遠くなる

平成七年、未発表句。前年よりもさらに少なく二十六句。病苦に地震の追い打ちが堪えているのだろう。上掲句は、この年の冒頭の句であり、まだ地震は起こっていない。

上五はいろいろな情景が想像できるが、何らかの堰を超え始めた幾本かの水の流れが道の遠さを強調しているように見える。当然、水は我が身、道は行方分からぬ未来を秘めているはずだ。この年の年頭の所感ととらえると、予見めいたものを感じる。