鷹女への旅 第11回
蔦枯れて一身がんじがらみなり
三宅やよい
初出『船団』第74号(2007年9月1日)
赤 黄 男 俳 句 と 「 薔 薇 」
鷹女が所属した『薔薇』の主宰である富沢赤黄男は新興俳句の中心的作家であった。新興俳句と一口に言ってもいろいろな流れがあるが、彼が俳句の出発において直接影響を受けたのは昭和十年代、春山行夫の『詩と詩論』を中心に始まったモダニズム詩だったろう。鷹女が所属を決めた「薔薇」の主宰である赤黄男俳句がどのような特色を持っているのか。まずはそこから考えてみたいと思う。
今日の詩人はもはや断じて魂の記録者ではない。また感情の流露者ではない。彼は、先鋭な頭脳によつて散在せる無数の言葉を周密に、選択し、整理して一個の優れた構成物を築くところの技師である。(「新散文詩への道」北川 冬彦『詩と詩論』第三冊)
この言葉からは「言葉が言葉を生み、文字が文字を呼ぶ、さうした形式主義的な僕の世界、つまり技術者として登場してきた僕」という高屋窓秋の言葉が想起される。新興俳句運動のホープであった高屋窓秋は始めから自らの詩法に自覚的であった。
モダニズムの詩人達は日本の伝統的な美意識から抜け出ようとしていた。彼らはまた多く短詩を作った。
春 安西冬衛
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた
馬 北川冬彦
軍港を内臓してゐる
イメージを喚起させるためには短ければ、短いほど読み手の想像力が増幅する特質を利用したとも言える。北川自身の言葉は短詩運動について、次のように述べている。
私の詩作はフランスのエスプリ・ヌゥボウの詩に刺激されたところ多大であったようである。それが安西冬衛との遭遇によって激化されたことはまぎれもない。昨年、安西冬衛が大阪から出てきて私の家に泊まったとき、「亜」の話がで、「僕らは何も彼らを模倣したのじゃなかった、あれは世界的気運であって、つまりコレスポンデンスだったんだ」と云ったが、たしかにそう考えていいだろう。私たちはイメージの立体構成ということに気を使っていた。形式的韻律(リズム)なんか念頭になかった。感情流露を事とする既成の詩を軽蔑し、新風樹立にいそがしかった。(『北川冬彦詩集』宝文館 あとがきより)
この言葉は赤黄男の初期の俳句に繋がる流れとして受けとることができる。
赤黄男は、草城の影響というよりも、当時の詩壇における「詩と詩論」その他の活動に心を惹かれながら、きわめて異色の新風を俳壇にもたらし結果的には新興俳句運動の最後の華となった。(高柳重信 『新興俳句運動概観』)
赤黄男において「詩と詩論」の影響は直接的である。彼が深く畏敬の念を抱いていた高屋窓秋との会話を見ると、彼らがこの先鋭な詩の世界に深く依拠し、「詩」としての俳句をめざしたことがわかる。
《君はどうやって俳句を作っているのか。》 ぼくはひと言、 《イメージ》 《ぼくも同じだ》と、赤黄男 (「新詩精神運動から戦争俳句へ」)
赤黄男が句日記に書き付けた俳句の原型と「旗艦」に掲載された俳句、そしてモダニズム詩との共通点を並べてみると次のようになる。
富 澤 赤 黄 男
『朝』
ガラス窓がみんな壊れてしまふ程
よい天気。 (「句日記」)
窓ガラス壊れてしまふよい天気 (「旗艦」昭和十年十月)
(川名大「新詩精神運動から戦争俳句へ」)
北川 冬彦
「海」
さびしい街のガラス窓がみんな破れてゐた。
(『検温器と花』大正十五年十月)
赤黄男はこの句を自選百句(「未定」83号「富沢赤黄男特集」)の中にも入れているので、記念碑的一句と考えていたのだろう。この類似を見ると初期の赤黄男のはその発想を短詩に学んだことがわかる。この句を見ると季語を核とせず、題をテーマに発想し、イメージで一句を構成している。この一行詩と新興俳句の句の構造的類似を考えるとき、「季語」から俳人の感性や抒情を核にしたキーワードへの質的転換がわかる。連作の中から生まれたとされる「無季俳句」であるが、俳句の内部で季語に代わる言葉の質的転換なくしては成立しようがない。これは赤黄男のごく初期の試みではあるが、赤黄男にとって俳句は詩であり、言葉の構成によって自己内部と世界を結びつける一回性のものでなければならなかった。目指すところは言葉の結合によるイメージの重層化であり、内部の心象風景を俳句に結晶させることでもあった。
戦後の赤黄男の俳句は戦前戦後の混乱の時代を経た後、抽象化の度合いを深めていた。彼の真面目な性格をそのまま反映するかのように、同人達も論と実作で極めてストイックに俳句を追及してゆく人ばかりであった。言葉を変えて言うならば「俳句が読み手を選ぶ」そんな自負心を持った集まりでもあった。その性格は「薔薇」解散後、高柳重信の率いる「俳句評論」へも受け継がれてゆくことになる。
話がやや煩雑になってしまったが、鷹女『羊歯地獄』の俳句は一般に「難解だ」と敬遠される。それは、俳句を詩と考える赤黄男と『薔薇』同人達に出会い、深く影響を受けた結果である。この時期の鷹女俳句は確かにとっつきにくいし、読みづらい。この時期の彼女の俳句を理解するには、同時期の赤黄男の俳句と彼を中心にした結社から鷹女が何を吸収しようとしていたかを考えなければならないと思う。
鷹 女 と 赤 黄 男
鷹女と赤黄男は同じ吉祥寺に住んでいたが、「薔薇」に所属するまでは、面識がなかったようだ。「最後の訪問」と赤黄男の病床を見舞った文章の中でそれまでに一回だけ「薔薇」の同人達と赤黄男の家を訪ねたことがある。と述懐しているのを見てもそれまでの鷹女と赤黄男の関係が推し量れる。ただ、「薔薇」への参加は俳句を詩と考える赤黄男への共感とともに、従来の俳句から決別して、詩として高めようと並々ならぬ決意のもとに入ったことが感じられる。
それでは、鷹女が「薔薇」に発表した作品を昭和29年1月号から見てゆきたいと思う。
十方にこがらし女身錐揉に (「薔薇」昭和29年1月)
蔦枯れて一身がんじがらみなり (「薔薇」昭和29年2月)
十方におこるこがらしの中で錐揉みに揉まれる女の身体を表現した句であるが、世の中や家庭環境に左右されるしかない、頼りない女の身の上。その境遇のままに年を重ねる焦燥感と苦悩を鷹女が本来持っている機知を通して具体的なイメージで描き出している。この句の背後に赤黄男の「錐をもむ 暗澹として 錐をもむ」の影響が見られるようにも思うが、鷹女の句には赤黄男のように自分の内面へ錐をさしこんでゆくような暗さや内省はまだ見受けられない。「蔦枯れて」の句は針金のように枯れ果てた蔦に捕縛されてがんじがらめになっている対象を自分に置き換え被虐的に表現している。この時期の鷹女が模範とした赤黄男であったが、数年後完全に沈黙してしまう。その過程にあった赤黄男の俳句は抽象化の度合いを強めていた。
草二本だけ生えてゐる 時間 赤黄男
この句は29年10月の「薔薇」に発表され、赤黄男の代表作としてよく取り上げられている。この草二本、が何を表しているのか。メタファについて高柳重信は次のように述べている。「一つの物象を描きながら類比というか、類推というか、そうした感覚によって思想を暗示し、喚起する方法である。それは物象と思考形態の二重写しである。」(「写生への疑問」)
ここでは、赤黄男内部にある孤独で殺伐とした心象風景が映像化されているのだろう。赤黄男がめざしたのは、過去、現在、未来という一定方向の時間の流れではなく、「時間」と書きながら時間の流れを否定した真空のような時間と空間だったのかもしれない。一字空きもこの頃の赤黄男句の特色である。切れ以上に深い断絶を句の中に作るべく、空白が置かれているのだろう。この句はあらゆる面から深読みされているし、その深読みを誘うのもこの一字空きの手法なのだが、同時にここではこう読んでほしい。と作者側の意図を強く伝えるものだろう。(この一字空きの手法については、鷹女もやがて多用するようになるので、そのときに詳しく見ていきたいと思う。)自己の内面へ向う赤黄男の俳句は抽象度を高めると共にだんだんと孤立化してゆく過程をたどることになる。
直観力のすぐれた鷹女は赤黄男以上の表現力を持っていたが意識的にそのような句を作ろうとしたのではなかっただろう。この頃の鷹女の発表句を見ると、赤黄男の手法を積極的に取り入れ、自分の句を根底から変えようとする姿勢が見受けられる。
「 薔 薇 」 誌 上 の 鷹 女 俳 句 の 特 色
この時期「薔薇」誌上に発表された句は『白骨』で捉えた孤独と死の影を自分で拍車をかけて重苦しい方向へ追い込んでいるようにも思える。句の印象はどんどん自虐的になり、一つの方向へ言葉を突き詰めてゆく結果、かえって単純で類型的な表現になる句も見受けられる。そんなことは鷹女には自明のことだったろうが、「死」や「孤独」の表出の仕方がナマで毒々しく、類型的で詰屈な表現であろうと避けて通らなかった。
生き地獄血の池地獄氷り初む
蹲る地の底までも枯れ極む
風花の窓開きなば狂ふべし
踊るなり月に髑髏の影を曳き(「薔薇」収録句)
手馴れた手法で、多数の共感を得る俳句表現で書くことならいくらでも出来ただろうが、鷹女は身に添った方法を捨て、一から自分の存在を言葉で洗い出そうとしていた。『白骨』以来鷹女の句には「老い」と「死」が見え隠れするようになるが、その表現は鷹女の美意識や好みからはみだしたものではなかった。
白露や死んでゆく日も帯締めて
いちじくや才色共に身に遠く(『白骨』所収)
これらの句に描きだされた「老い」や「死」は幻想的で美しい。自分の中の女を厭いつつも本来鷹女が持っているナルシズムや美意識を崩すことはなかった。赤黄男や高柳と交流を重ねるうちに自分の句の甘さを払拭し自己の内面を凝視しようとする心持ちが生まれたのだろう。
三章
積むや雪無言女仏の息あらび
北風の眉ひきいのち死なざり
心中に火の玉を抱き悴めり (「薔薇」昭和29年3月号・4月号収録)
この頃の鷹女は発表の際、以前のように題をつけることはなくなっていた。ただ発表句の数に沿って、三句であれば「三章」五句であれば「五章」と簡単な表題をつけるのみ
だった。
水に死し蝶自殺かも知れず (「薔薇」昭和29年8月号収録)
白蝶の涼しき水死見守れる (『白骨』所収)
ほぼ同じ発想の句であるだろうが、「白骨」所収の句は白蝶を自分から切り離した対象として、観察している視線が感じられる。対象と自分を切り離して立ち位置が、「薔薇」に発表された形では水死から自殺と、羽を濡らして二度と飛び上がれぬよう水に飛び込んだか蝶に色濃く自分を投影している。蝶はすなわち鷹女自身であったのだ。
春眠や金の柩に四肢こほらせ
青葡萄天地ぐらぐらぐらぐらす
ここには従来の鷹女が持っている美意識と意識の裏側にある「死」や「不安感」というものが、過不足無く表出されちる。このような俳句はかえって稀である。
昭和29年7月号は「薔薇」20号記念号であり、「薔薇」新人賞の審査員として赤黄男とともに鷹女が坐っている写真が掲載されている。
「薔薇」に参加した頃から鷹女は一般投句の選句をも引き受けていた。鷹女が指導していた「ゆさはり句会」からも 三村婦久子、三村勝郎などが参加している。
鱈の瞳の虚ろ北海の夢消えて
退屈な海もりもりと柿食ふ 三村勝郎
母の娘と思ふ煮凝食うべつつ
海を着し秋風何をもたらすや 三村婦久子
この二人は「ゆさはり句会」発足に尽力したのち遠くの土地に転勤になった。直接句会には参加できないメンバーもこうして「薔薇」の鷹女選者の投句欄に投句することで、つながりを保っていたのだ。こうして『羊歯地獄』刊行までの八年間。鷹女の苦闘の日々が幕を開けたのだ。
(つづく)
【参考文献】
『昭和俳句 新詩精神の水脈』川名大・有精堂出版
『現代俳句の軌跡』高柳重信・永田書房
「薔薇」昭和28年、29年
『高柳重信全集』立風書房
『三橋鷹女全集』立風書房
『詩とはなにか』嶋岡晨・新潮選書
『モダニズム詩集』鶴岡善久・思潮社
『日本の詩歌24』中央公論新社
●
0 comments:
コメントを投稿