2008-12-14

〔週俳11月の俳句を読む〕村田篠

〔週俳11月の俳句を読む〕
村田 篠
どう想像すればよいのか


初夏を吸い込む鏡回転木馬   小野裕三

鏡に引き込まれるようだ、という感触をもつことはある。
けれども掲句では、鏡が「吸い込む」。それはまるで、自分は鏡のなかにいて、鏡のなかから外を見ることで、はじめて持ちうる感覚のような気がする。
鏡のなかから、回転する回転木馬を見ている。周りには、光る若葉も見えている。
幾重にも映りこむ風景のなかの、ある瞬間、ある一点を見るような重層感に、惹かれる。

 

とうきびの刈られて青い封書くる   中山宙虫

さとうきび生産の北限は、四国・徳島あたりだという。
背の高いとうきびが刈られて、広々としている南国の風景を想像する。刈られたとうきびは、あるいは焼酎の原料となって発酵してゆくのだろうか。
「とうきびの刈られて」というフレーズからさまざまな営みが想起され、そこへ「封書」が届けられる。
その封書が実際に青かったかどうかは、さほど問題ではないのかもしれない。きっと、刈られたあとのとうきび畑を前にした作者には、青く感じられたのだ。

 

草原の枯れて激しく晴るる空   寺澤一雄

枯原の上に広がる空を激しいと思ったことはない。でもそれは、私の思い込みだったのか、と一瞬心が揺らぐ。
しかし、枯原の上の空はやっぱり淡く、その青はせいぜい澄明といえるくらいのもので、激しいというほどではない。
掲句にある激しさを、どう想像すればよいのか。
たとえば、アメリカ合衆国とカナダの国境が「一直線」であることの激しさ。あるいは、むかし観た『ストレート・ストーリー』というアメリカ映画の、芝刈り機で500キロの道のりをひとり旅する老人の激しさ。
ふと気づいたのは、「草原」という言葉である。「枯原」ではなくて「草原が枯れている」。
その広さ、大きさ、獰猛さを思うことで、ようやっと「冬の晴天の激しさ」を想像する。

 

海鞘食ってどぶんどぶんと老いてゆく   斉田 仁

私自身、うっすらと肉体的な老いを感じる年齢になった。しかし、中身はまだ子どもだ、と思うことがよくある。
そんな感慨で掲句を読むと、なにやら、ぶっちぎられるような気持ちよさがある。自らを「肉体」と「中身」といったような境界で仕分けることのどうでもよさを、思い知らされる。
どぶんどぶんと、海鞘が食べたくなった。

 

ワイパーのぎしぎし鷲の降りてきし   大石雄鬼

ワイパーを「ぎしぎし」という音で捉えたところがいい。
まるで、音に呼ばれたように、鷲が舞い降りてくる。勢いのある句である。
しかも、「ぎしぎし」に連動して鷲の羽音まで聞こえてくるようで、旺盛な生命力がたちまちにして一句の風景に広がる。
ぎしぎし、わし、おりてきし、とつづく「し」音の重なりがリズムとなり、聴覚をほどよく刺激するところも、なんとも魅力的だ。





小野裕三 医大方面 10句 ≫読む
長嶺千晶 大きな月 10句 ≫読む
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八田木枯 夜の底ひに 10句  読む
寺澤一雄 行 雁 アメリカ雑詠 10句  読む
中西夕紀 夢 10句  ≫読む
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