〔週俳11月の俳句を読む〕
馬場龍吉
ツッコミは入れないでね
いまごろ気付いたことなのだが湯呑みの暖かさというか温みのことである。コーヒーカップは指の取っ手で熱さを回避するのだが、コーヒーの熱さを回避するということはコーヒーの温みを拒否することでもある。茶を淹れた湯呑みからは熱くても温くても直に指に伝わってくる。そういった湯呑みの温みは俳句の鑑賞においても通じるような気がする。
はじめから自分の好き嫌いで俳句を読んでは、俳句も作者の思いも伝わってこない。書かれた通りに読むことでその作品にある詩言が響いてくるのだ。それは措辞かもしれないし季語かもしれないのだが。
初夏を吸い込む鏡回転木馬 小野裕三
鏡は映すものであり、反射するものでもある。回転木馬が初夏の景色をブラックホールでもあるかのように「吸い込む鏡」と捉えた小野氏はセンシティブな感性の持ち主である。〈バス停明るしもうすぐ雨の上がる滝〉も夏らしい明るい雨を見せてくれている。この人の都会的なムードは持ち合わせたセンスであるようだから真似して出来るようなものではないようだ。
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村芝居大きな月も顔を出し 長嶺千晶
まるで芝居の書割りの月が出ているようなぺらぺらな世界が面白い。長く俳句をやっていると助詞の「も」には気をつけて歩くようになるのだが、この作品にはあけっぴろげの良さがあり、童話の1ページを捲ったようなあたたかみを感じた。
この夏第三句集『つめた貝』を上梓した長嶺氏の作品を集中からいくつか紹介したい。
山茶花のくれなゐに鳴る神の鈴 長嶺千晶
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こすもすをはなるるゆらぐことありて 中山宙虫
表記がすべて仮名表記になっているので、こうして横書きにして見るとコスモスの花が咲き並ぶようにも見えてくる。きっと真剣な悩みだったのだろうが、時間をおいて考えてみて「それもいいかな」と、ひとり慰めているようにもとれる。「コスモス──揺らぐ」この公式を使ってはぐらかすように別の世界を作れる技ありの作品だ。〈秋風や歩いて埋まる人類史〉「人類史」が俳句になるなんて……もの思う秋だからこそできた俳句なのかもしれない。何億もの人の足音が聞こえるようだ。
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美しき嘘狐火を見しことも 八田木枯
狐火とは見えるものではなく、見たような気がするようなものかもしれない。俳句的には「狐火」の俳句は見たように作ろうと努力するだろう。この作品はそれを最初から「嘘」だったと答えを提示している。そこに「美しき」があることで「んなバカな。狐火ってほんとうに有るに決まってる」と読者は八田氏の術中にはまってしまう。〈雀瓜烏瓜よりさはがしき〉見た瞬間のひらめきを俳句にしたような作品。こういう事って大事なことだと思った次第。
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風呂敷は一枚の布秋の空 寺澤一雄
誰もが知っていることを誰もが知っている言葉で書く。それが俳句になる。言っていることはそれだけではないはず、と読者は思う。計らいのない計らいと言えるのかもしれない。〈平原の水あるところ窪みかな〉〈行雁のすぐに頭の上を越え〉これらの作品もそうなのだが、やっぱり計らいがあるような寺澤流俳句である。
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光琳の兎も見えて冬の月 中西夕紀
月にうさぎが見える。それは「光琳の兎」だった。と、視界に金粉が降り注ぐような気持ちになるから不思議だ。〈ぶきつちよに飛ぶ轡虫おまへもか〉健気な小動物や昆虫を見ていると一声かけてみたくなるものだ。やっぱり一茶の俳句はまだまだ有りだと思う。作者の優しさがつい出てしまった俳句。
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いくつもの斧をねむらせ雪の山 冨田拓也
ほんとうに眠っている斧があるかもしれない。雪山にはそういう説得力がある。〈大いなる顔秘むる枯野原〉だだっ広い枯野原とは言え、晴天と曇天、雨天ではその景色が変わって見える。という読み方でいいのだろうか。そう読むのは浅いか。書かれた通りに読んだつもりなのだが。
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蛇の脱殻は財布に入れておくとお金が貯まるとか聞いていたが、瓶に入れておくことなど考えもしなかった。冬日のなかでそれを見ていると、きっと龍を閉じ込めたような気にもなるのではないだろうか。〈地図描くに紙片を出でし冬の道〉これも面白い。
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放蕩の末に海鼠となったのか 斉田 仁
海底にけだるく生きてる海鼠はそうなのかもしれない。と言いながら羨ましそうな視線をおくっている作者も見えてくる。〈海鞘食ってどぶんどぶんと老いてゆく〉も海鞘を食べて海で浮いているように生きていくご隠居の姿が見える。
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乾鮭の置かれてゐたる神の膝 大石雄鬼
「神の膝」が生々しく見えてきて実感がある。それも北国の神だろうな……と。
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