2008-12-14

鷹女への旅  第12回 三宅やよい

 鷹女への旅  第12回

 波を織り波を織りつつ透き通る



 三宅やよい

初出『船団』第75号(2007年12月1日)



昭 和 三 十 年 代 の 鷹 女 俳 句 の 特 色

一句を書くことは、一片の鱗の剝脱である

四十代に入つて初めてこの事を識つた

五十の坂を登りながら気付いたことは
剝脱した鱗の跡が、新しい鱗の芽生えによつて
補はれてゐる事であつた

だが然し 六十歳のこの期に及んでは
失せた鱗の跡はもはや永遠に赤禿の儘である

今ここに その見苦しい傷痕を眺め
わが軀を蔽ふ残り少ない鱗の数を数えへながら
独り 呟く……

一句を書くことは 一片の鱗の剝脱である

以上は、あまりにも有名な『羊歯地獄』の自序である。この句集を読むのにいつも息苦しさが伴うのは、鷹女の切羽詰った気分がこの一集に閉じ込められているせいかもしれない。

『羊歯地獄』は俳人としての鷹女が決定づけられた句集であろうが、外部からどう評価されていたのか、高柳重信第三巻に収録されている「現代俳句を語る」という座談会を参考にしながら考えてゆきたいと思う(収録は1980年頃。出席者は飯田龍太・大岡信・吉岡実・高柳重信)。女流俳人について話を進める中、飯田龍太が鷹女について次のような発言をしている。

飯田 戦前と戦後の女流の違いは、戦前の女流は好奇心にウエートが置かれて評価されている。戦後の女流は技術的なテクニックの問題にウエートがかかってきたという感じがしますね。 (中略) もう一つ異色な人は三橋鷹女さんね。高柳さんは新興俳句のところで新興俳句のことを、かなり厳しく言われたけど、一番きびしい責めを負った人は鷹女さんじゃないかとぼくは思っている。私はあの人新興俳句のいちばん生贄になった人だと思うね(笑)。戦前、戦中、戦後にかけても、性別を問わずにね。
吉岡 生贄という意味がちょっとわからないんだけど、どういう意味で…。
飯田 要するに一般の大衆の共感を得なかったということですから、拍手喝采を得るに至らなかったということですね。あとは、ある意味で言えば、女流の場合はみんな拍手喝采型ですね。
大岡 そうか、そう言えばそうですね。
飯田 女流の特色ということになると、だいたい拍手喝采型。
大岡 鷹女さんというのは、富沢赤黄男さんとわりに対になってぼくの頭のなかにあるんですけど、鷹女のほうが女性であるために句を非常に肉感的にとらえているところがあるから、赤黄男さんよりは、まだそれでも言葉のなかでときどき幸せだったんじゃないかという気がする。富沢赤黄男さんという人は言葉との付き合いでどうも幸せじゃないかという気がしてるんですよね。

太字の部分は前段で、重信が新興俳句運動について俳句に方法意識を導入し日常次元から独立した言葉の世界へ踏み出そうとした試みではあったが、窓秋、白泉、三鬼、赤黄男を除いての大多数は心意気の段階であり、新興俳句総体がなんだったかといえば漠然としてしまっている、といった発言の部分を受けているのだろう。

新興俳句の流れをくむ「薔薇」に身を寄せた鷹女が俳句を詩と考え自己の内部を抽象化し、イメージとして表現しようとした。その彼女の俳句が「一般の大衆の拍手喝采」を受けずに辺境の俳句であり続けたこと。言葉の純粋性高めるために言葉を削ぎ落とし、孤立を深めていった在りかたを龍太は新興俳句の「生贄」と表現し、大岡は富沢赤黄男と鷹女を対にしてとらえているのだろう。

龍太は女流の特色として「拍手喝采型」と表現しているが、それは男性がほとんどだった俳句の世界で有季定型の規範からはみ出さず、素直で柔らかな感性で表現された俳句を生み出す女性俳人という意味だろう。鷹女も戦前は夫、剣三や石鼎、蕪子らの指導と後ろ盾を得て、拍手喝采のうちに登場し、人々から賞賛を得た女流であった。例えば次の二句を比べてみよう。

  霧冷えの音を近づけぬ火事太鼓

静かな夜もよほど更けて居ると見えて、一面に霧が籠めて居る。その霧の遥か遠い奥から霧冷えに湿った鈍い太鼓の音が段々とこちらに近付いて来る、といふのである。「音の近づきぬ」といふところを「音を近づけぬ」と火事太鼓を打つ者の働きとして叙してある所が、如何にも霧冷えに太鼓の皮のたるみ鈍った音を現実に聞かすやうになつて居る。(昭和9年「鹿火屋」3月号「女流俳句について」原石鼎評)

  祭太鼓鳴り狂ひつつ自滅せり (『羊歯地獄』昭和30年・所収)

二十一年の歳月は有季定型を心棒にして俳句を書くものにとってはさして長い歳月ではないだろう。自意識を消して対象を見つめることで言葉を得る。句の中心にある季物は自分より大きなテーマなのだ。鷹女はその方向軸をまるで逆に持ってこようとしている。つまり自分の内面、その内的必然にしたがってイメージを立ち上げようとしているのだ。

前者の句の場合石鼎が鑑賞しているように中心は自分ではなく「火事太鼓」の音であり、それを霧の夜のリアリティを感じさせるべく表現している。自身の内面は近付いてくる太鼓の音の裏側に隠されている。「俳句的」に洗練された手法から言えば後者の句は身も蓋もない。「鳴り狂う祭り太鼓」は彼女自身の混乱の独白である。しかもそれが「自滅せり」なのだからダメ押しもいいところである。

彼女が表そうとしたのはもはや日常の小さな感慨を俳句という器へ切り取って表現することでなかったし、季語をフィルターに自分の思いを普遍化することでもなかった。抽象化しようとしたのは収まりのつかない彼女自身の感情だった。この途方もない企てを目指したしんどい表現の前に「物言わぬのが俳句」と、余韻と滋味を楽しむ読者が蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったとしても仕方のないことであった。

『羊歯地獄』は鷹女が歩いた過程を記録したものであり、「一句を書くことは、一片の鱗の剝脱である」序の言葉はまったく正直な独白であった。俳句の枠の中で書き継ぐなら鷹女は充分に「拍手喝采型」俳人であった。しかし、それとは遠く離れ「鳴り狂う」姿を晒しながら鷹女は自身の俳句を模索し続けた。


涙 ぐ ま し い 俳 句

鷹女の『羊歯地獄』を重信は次のように評している。

まさに手のつけようのない女の情念の深い深い常闇としか思えないものがおどろくべき執念深さを発揮してついに辿りついたところ、いわば静まりかえった恐ろしどころの光景にあった。(「鷹女覚え書き」)

続けて「往年の鷹女俳句の愛好者たちが、(『羊歯地獄』の諸作品のように)より強烈に鷹女の特色が出ていると思われる作品に対するとききまって判で押したようにみな一様に背をむける」と述べている。そんな鷹女を龍太は先の座談会で「恵まれない人」といっているが、あえて自分をそういう方向へ振向けなかった鷹女の性質を高柳は次のように述べている。

高柳 鷹女の句というのは、通して読むと、非常に涙ぐましい感じがするんですね。やっぱり女だなあと思います。 大岡 女の宿命というものをいつも考えて、そのうえでうたっているからね。
飯田 それから下賎な女の志でなくって、ある意味で恵まれた世界の、あれは一つのプライドだね、鷹女の詩精神というのは。それに比べると失礼になるけど、極端な例からすると長谷川かな女さんと対照的だな。心の貴族、清少納言みたいなね。
大岡 うまいことを言うものだな。(笑)
飯田 これはオーバーだけども、いま清少納言が生きていると、鷹女みたいになっちゃうんだ。ひねこびてね。
高柳 ただ女流というのは、いつも誰かを頼りにしながらも、同時にそれに反発する形になりやすい。鷹女の場合、それは原石鼎とか富沢赤黄男とか永田耕衣などで、影響を受けながらもそれに反発することで伸びてゆく。
飯田 杉田久女という人は妥協したと思うね。鷹女さんという人は死ぬまで妥協しなかった人だね。…中略) (女性俳人の中で)鷹女さんの系統は少ないんですよ。清少納言が。そういう意味では三橋鷹女さんという人はだんだん別な意味で認識されてきやしないかという感じを持つね。

女性俳人の流れを概略的にとらえた座談会での会話の一部である。観念に傾く鷹女の性質を「ひねこびる」という言い方は意地悪いが印象深い。

鷹女は徹頭徹尾「言葉の人」である。幼少期の短歌との出会いや文学との出会いを考えてみても、言葉が彼女の性質を形作ってきた。彼女の俳句は外部との出会いに触発された感慨を表しただけでなく、言葉で探りながらその先にある世界と出会い続けたように思う。

高柳、赤黄男との出会いによって鷹女は自分が「言葉」で俳句を作るタイプであることをはっきり自覚したことだろう。その意味での「清少納言」という形容であれば、この言葉は理解できるし、「女性俳人に鷹女の系統は少ない」というくだりは、高柳が常々言っていたように「作品に書かれた言葉のみでリアリティを証明させようとする」俳句手法をとる作家という面から見ればそうだろう。

言葉の観念が先行する作家と言ってもいいかもしれない。女性でそのような書き手はいなかったし、鷹女以後中村苑子、津沢マサ子など、その系譜に繋がる書き手を生み出していったともいえる。

付け加えておくなら、龍太の言うようにプライドの高い鷹女ではあったが、前述したようにこの時期の鷹女はプライドをかなぐり捨てている。高柳が「俳句評論」の創刊号で書いているように、自分にとって新しい俳句を書こうとする行為は「いちいち自分で自分自身の胸の中をのぞきこみながら沢山の夾雑物と一緒に新しい何かをつかみ出さなければならない。つかみだしたものの中で、どれが新しい何かで、何が夾雑物であるか、その選別も容易ではない」状態だったろうから。昭和三十年代前半の鷹女は、自分の赤裸々な内面を覗き込むことで、何かが見えると、直感した方法を突き進むしかなかった。


俳 句 評 論 刊 行

さて、昭和三十二年、鷹女の所属した「薔薇」は終刊し、「俳句評論」となる。「薔薇」最終号に高柳重信は次のように書いた。

「薔薇」は枯れつくして終刊になるのではない。「薔薇」が創刊以来ずっと堅持してきた在野的な不屈の自由な精神を、より普遍化し、さらに広く生かすため進んで発展的な解消をするのである。

そして鷹女も新雑誌になっても引き続き参加する。鷹女の身の回りの変化といえば、昭和三十二年愛息陽一が結婚したことと、成田から引き取った老母がこの世を去った。主人の剣三も病気がちで家庭においても鷹女にとって気苦労の多い生活が続いたことだろう。年譜には表立って書いてはいないが複雑な案件を抱え込む出来事もあったようだ。鷹女をよく知る「ゆさはり句会報」編集発行人の川本茂樹氏の鷹女評にこの時期の鷹女について次のように書かれている。

鷹女は自分に関して言われたことについてひどく敏感である。それは何日ものあいだ彼女の頭を占領してしまう。偶偶そんなときに訪ねたならば、対座のあいだ中彼女の話題がその問題に集中されることを覚悟しなければならない。 (…中略…) 彼女が語るのはもっとも身近な生活的な「こと」にしか過ぎない。断片的な些事を通じて秩序が確立されてゆく。彼女の苦悩は妥協を許さない。彼女には弛緩がない。これが鷹女を多忙にし、病身にし、且つその俳句を成立させる。句作においても実生活においても自己を鞭うたねば生きていけない。(「薔薇」31年4月号所載)

「今何を詠みたいか」という「俳句評論」昭和三十三年六月号のアンケートに「孤独」と答えた鷹女である。生活の諸事情を通じて彼女が心底感じていた女としての「孤独」を言葉の風景として現出させること。この頃より『羊歯地獄』のテーマは自ずと鷹女の中で固まっていったようだ。


(つづく)


【参考文献】
「薔薇」昭和30年
『三橋鷹女全集』立風書房
『高柳重信全集』立風書房


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