2008-12-28

鷹女への旅  第14回 三宅やよい

 鷹女への旅  第14回

 巻貝死すあまたの夢を巻きのこし



 三宅やよい

初出『船団』第77号(2008年6月1日)



『 羊 歯 地 獄 』 以 後 の 鷹 女


昭和三十六年。『羊歯地獄』を上梓したあとの鷹女を「俳句研究」三橋鷹女特集号に掲載された年譜で追ってみよう。

昭和四十年に長男陽一が会社よりニューヨーク駐在員として三年間の渡米を命ぜられ、羽田を出発とあるが、この年号は細い鉛筆の書き込みで三十八年二月。陽一の帰国も四十二年から四十一年五月と訂正が入っている。私がコピーをとった年譜の原本は三橋家から成田図書館に寄贈された一冊で誤字や記憶違いに関する訂正書き込みは鷹女自身の手でなされたのだろう。全集などでは訂正通りの記載になっている

陽一出発の直後から病気がちになり胃下垂により慢性胃炎のため入院治療。俳句も空白が続くとある。自分の全てを注ぎこんだ『羊歯地獄』の発刊以後鷹女は精根ともに尽き果てが状態になっていた。

この年鷹女はすでに鷹女は六十代の半ばを越えようとしている。もともと病弱なうえに無理のできない身体、長年の労苦が彼女の身体を疲弊させていた。しかも限りなく愛し頼りにしていた一人息子の陽一が遠いアメリカに赴任してしまったのだから、心細さはこのうえもなかったろう。
当時は海外渡航がようやく自由になった時代。今のように太平洋を簡単に行き来ができるわけもなく、渡航は限られた一部の人たちができる特別の経験だった。連絡をとるのもなかなかだったろう。老夫婦二人で営む生活に自分の病が加わり何かと不安な日々を鷹女は送っていた。

昭和四十一年に陽一が帰国するまでに「息子が育てた庭内百種にあまる薔薇は主の留守にほとんど枯れ、「日本羊歯の会」会員でもある夫が飢えた羊歯がますます繁殖し、羊歯国の様相を呈するようになった」とある。

そして昭和四十一年、陽一が帰国する前あたりから鷹女は「俳句評論」にぼつぼつ句を発表し始めた。


『 橅 』 へ の 始 動

俳句評論(昭和四十年十月発行七巻六号)発表句二十八句。題名は昭和四十五年刊行の最終句集『橅(ぶな)』の冒頭と同じく「追悼篇」と題されている。発表句のうち十五句が句集に収録されている。

  いまは老い蟇は祠をあとにせり

  河が光つて夜はねむれぬ唐辛子

  青沼となる青い野の青すみれ

  沖近くなる痩身のかざぐるま

  囀りや海の平らを死者歩く

この「追悼」とは何を追悼しているのだろう。いよいよ自分の生涯も最後にさしかかっているのを意識しているのか、鷹女にとって追悼すべきは亡くなった父母であり自らの過去であり、生活をともにする人々でもあったろう。

自虐をもつて生き抜くことの苦悩の底から、しあはせを摑みとりながら長い歳月を費やしてきた私の過去であつた--。

これからの私は“自愛”を専らに生きながらへることの容易からざる思ひにこころを砕きながら、日月の流れに添うて、どのやうなところに流れ着くことであらうか--。

『橅』の序文には自分との飽くなき戦いを「自虐」と規定し、すみずみと自分を監視せずにはおられない彼女にとっては困難な「自愛」を心がけたいと表明している。『羊歯地獄』が俳句形式との戦いを主とした「動」の句集であるならこの句集はその後から湧き出る言葉をいとしく掬い取った「静」の句集といえそうだ。

先ほど掲げた句には『羊歯地獄』の切羽詰った激しさとは違う雰囲気が感じられる。「蟇」も「唐辛子」も「青すみれ」も「かざぐるま」も老いた鷹女の化身であろう。祠をあとにした蟇は住みどころなくさすらい死ぬしかないだろうし、沖近く激しい風にくるくると回る風車は死への不安にさいなまれる焦燥感のあらわれかもしれないが、『羊歯地獄』で繰り返し描かれた自己主張の激しさは影をひそめ、「老い」や「死」を避けられぬ運命を受け入れるあきらめが感じられる。

  囀りや海の平らを死者歩く

この句については歌人の塚本邦雄が『百句燦燦』の中で次のように評している。

水上を歩むのはイエスではなかった。勿論知盛であるはずもない。不特定の単数または複数の死者であり、作者自身もその一人となる運命にあった。早春のまだ冷ややかな凪の海に反魂の儀を試みる心ばえは流石である。精霊流しなる夏の季語を春に転じ彼女一流の反世界を描いて見せたのである。

この文に引き続き、晩年の彼女の句は「巫女の呪詞に似た禍々しさに満ちている」としめくくっている。確かにおろかな人々の揶揄に信仰の証として水の上を歩いてみせるイエスの確信に満ちた行為と違って、海上をゆく死者の歩みは薄暗く侘しい。彼我を越えゆく海を歩く無数の死者の群れの一人となって海上を歩いてゆく自分自身をまだ生きている鷹女が描いていると考えると、いっそう恐ろしい。

死ぬのは怖い。そんな当たり前のことを句でひとつひとつ確認しているような鷹女の句はやはり「自愛」ではなく「自虐」ではないか。しかし、執拗なまでに自分の死を見つけ続けた彼女は結果的にあの世とこの世を自由に往来し、交信する能力を会得したのかもしれない。塚本評するところの「巫女の祝詞」である。

『羊歯地獄』を経て鷹女のあの世への幻視は凄みを増してゆく。これらの句と比較すると『白骨』で捉えた自らの死「白露や死んでゆく日も帯締めて」は美しく若さによる艶があるように思える。

翌年昭和四十一年三月発表三十二句。昭和四十二年一月発表二十八句、昭和四十二年「俳句評論創刊十周記念号」十五句など、陽一の帰国のあと、体調も回復したのか堰を切ったように鷹女は句を発表し始めた。発表句の題名は「追悼篇」で統一され、それらの句をもとに『橅』の「追悼編」は構成されている。

  あす覚める眠りかみがく桃色ひづめ

  こめかみに土筆が萌えて児が摘めり

  死ぬも生きるもかちあふ音の皿小鉢

「あす覚める眠りか」は反語的に、覚めることのない眠りを同時に含んでいる。それでも桃色のひづめをみがいて眠りにつくのだ。皿や小鉢のかちあう音。食べる行為に伴うその音は暮らしの音でもある。「死ぬも生きるも」の部分に自分が死んだあとも同じ家でその音は繰り返したてられる。

死は消滅ではあるが、自分が死んだ後も世界は持続している。認めるには淋しいことであるが、自分が消えたあとの世界を見続ける鷹女がいる。生と死に境界を設けるのではなく、生の延長線上にある死、生と死の連続が感じられる。昭和四十二年一月の発表句には鷹女の最終句集の題となるべく句も収録されている。

  はるかなる嘶き一本の橅を抱き

遠くから馬の嘶きが聞こえてくる。それを聞いている(自分)は橅の幹に腕を回してしっかり抱いている。そのような情景だろうか。繰り返し読んでいるうちに鷹女自身が樹を抱きながら悲しげ嘶きをあげているようにも思える。何を呼んでいるのか。一本の樹をしっかり両手に抱いて、鷹女は最後の声をあげてみせたのだ。もう鷹女は自分が晩年にさしかかっていることをはっきりと意識している。

陽一の帰国後、句を発表しだした鷹女の発表の場は同人を辞したとはいえ「俳句評論」が中心でだった。十周年記念号では、三橋敏雄、和田悟朗、中村苑子ら同人が鷹女の句を評している。『橅』の追悼篇に収められた句には次のような句がある。

  羊歯を摑んで老年羊歯となる谿間

  老鶯や泪たまれば啼きにけり

  老牛に道をゆづられ陽炎へり

  一匹の蝶をとまらせ古びた白球

  仰向いて雲の上ゆく落椿

  巻貝死すあまたの夢を巻きのこし

「落椿」の句は入院中に作られたのだろうか、仰向けに寝ている天井の上を流れ雲。例えば川底に横たわって水面を流れてゆく椿を見ているような感覚だ。生と死が境界なく繋がって不思議な情景。蝶をとまらせるもう人からは忘れられた運動場の片隅に朽ちてゆく古びた白球。もう成長しない砂の中に横たわる貝。いずれの句にも鷹女の激しい感情は見られない。


俳 誌 「 羊 歯 」 の 創 刊

何度かの入院に際して文章を発表しない鷹女には珍しく病床録が「天女花」と題されて「俳句評論」昭和四十年八月号に発表されている。そこでは永田耕衣への親しさに満ちた文章が綴られると同時に病床で「琴座」五月号を病床で読んで印象が好意的感想として綴られている。

病状が少し良くなってくると、頭の中の白天井が急に重苦しく感じられやりきれなくなつて来た。手提鞄の中を覗くと、手廻り品に混じつて「琴座五月号」が見出されたのを倖に、仰臥の儘頁をめくる。薄手の圧死で胸の上にのせて読むに最適である。このやうに内容がすつきりと充実して愉しく読める雑誌がさうざらにあるものではあるまい。(…中略…) 魂の据わつたしかも瑞々しい老年の何人かが寄り集つて、うすつぺらで気の利いた雑誌を持つてみるのもおもしろいんぢやあないだろうか…等と思つた。

永田耕衣は「鹿火屋」「鶏頭陣」「紺」「俳句評論」と長年鷹女とぴったり同じ俳句遍歴を重ねた同好の士。年齢は一つ鷹女が上であるがほぼ同じ時代を生きてきた親しみは常に持ち続けていただろう。

不思議なことに二人は鷹女が亡くなる三年前に東京日本橋の三越百貨店で開催された永田耕衣の書画展に鷹女が訪ねるまで一回も顔を合わせていない。関西と関東、と地理的に離れていたことと病弱の鷹女と会社勤めをしていた耕衣にその機会がなかったまでのことだろう。

鷹女が自分から俳人を訪ねるのは稀なことである。病身をおしてまで出かけたにもかかわらず二人は顔を合わせて差し向かいでアイスクリームを食べたきりほとんど言葉を交わすこともなかったという。最初で最後の出会いは淡々としたものだった。

積もる話があったはずであるが、ほとんど何も語らなかった。語らなかったことが、かえって多くを語つたことのような気がして、格別の心残りもなく、胸中まことにさわやかなこのがあつた。

耕衣も鷹女も強烈な個性を、自分という人間をまるごと俳句に注ぎ込んでいた。会うのは初めてでもお互いの人間については俳句で了解済みであったろう。語らずとも「出会いは絶景」とする耕衣の言葉通りの邂逅であったろう。

少し話しが先走ってしまったが、先ほどの「琴座」に話を戻すと、少数精鋭と言っていいこの俳誌を眺めての憧れとこの呟きが具体化したのが、昭和四十四年、新興俳句運動で理論的支柱だった湊楊一郎からの同人誌を作らないか、という誘いだった。

同人を辞したあとも「俳句評論」に句を発表は続けていた鷹女ではあったが、定期的に句を出せる小さな広場のような同人誌を作ってみたいというのはこの頃の鷹女の小さな願望だったのだろう。吉祥寺の鷹女宅に新雑誌発行のための会合が開かれ、夫も含め新雑誌に参加することが決定された。

この俳誌は「羊歯」と名づけられた。この俳誌名については昭和四十四年五月発行の第一巻第一号には次のような記載がある。

一、 誌名は楊一郎氏があらかじめ書いて当日持参した三十ほどの候補名から、選ばれた。これについて三橋鷹女さんから、『羊歯地獄』という自著があるので、自分の主宰誌のような印象を外部に与えはしないか、と意見が述べられた。しかし楊一郎氏と春嶺は『羊歯』がよい名称だから選ばれたので、対外的の考慮は必要ないのでは、と言ったので鷹女さんが了解した。
二、 会の名称を「羊歯の会」とする。詩名が『羊歯』だから「羊歯の会」がよかろうというので一決。その名の示すとおり同人制は採らず、会員制を採用することに決める。
三、 会員は無所属の人十名で発足したい。

これらの会則の後に鷹女の編集後記として「貧弱だけれど、手をつないで愉しく、行けるところまで行くつもり。みんなが少し勤勉になれるかもしれない」とある。文字通り仲間には「ゆさはり句会」の三村ふく子、浜華代子、などが加わり鷹女にとって安穏と心も身体も伸ばして句を出せる場であった。俳誌の編集は湊楊一郎の息子の嫁である歌人の久々湊盈子さんが担当された。総勢七名の小さな同人誌に鷹女は「自愛篇」と題した句を発表し始めた。


(つづく)


【参考文献】
『三橋鷹女全集』立風書房


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