2008-12-14

『俳句界』2008年12月号を読む 舟倉雅史

【俳誌を読む】
『俳句界』2008年12月号を読む

舟倉雅史


●佐高信の甘口でコンニチハ! p87-

今回のゲストの小池昌代氏は、俳句は作ってみたことはあるけれど「読むだけに徹しよう」と思った、その理由について次のように言います。

「これは魔物の世界だ、俳句に入ったら抜けられない」と思ったからです。俳句は敷居は低く設定されていると思いますが一端(ママ)入ると大変な獣道というか、分け入っても分け入ってもまだまだ奥がある世界だと思います。

確かに、読むだけに徹しているときは「獣道」などとは思わなくても、作る側に回ってもう一歩先まで踏み込んでみようとすると、この世界にはなかなか難しい問題が立ちはだかっていることを感じます。これは、職場の句会に軽い気持ちで参加して以来細々と俳句を作り続けているうちに、俳句の世界が少しずつ見えてきた現在の僕の実感でもあります。

「俳句界」の12月号を読んでいると、ホントに俳句の世界ってわかんないよなあ…という疑問がいくつも湧いてくるのです。


●俳句添削教室  p198-

俳句研究所所長大牧広曰く、

昭和三十年代には「社会性俳句」が沸き起って、ひととき思想性が「まぶされた」ことがあったが、現在はふたたび痴呆性さえたたえた無思想俳句が、ことに三十代四十代俳人の間で生まれている。

「痴呆性」をたたえた「無思想俳句」を作る三十代四十代俳人って、だれなのでしょう? そしてそれはどんな句なのでしょう。大牧氏は次のようにも言います。

俳句は癒しの詩芸ともいえる。その癒しは、大きな何かの「黒い霧」がたちこめていないことが必須である。本当に癒しとしての俳句、生きてゆく活力をさずかる俳句とするならば、ほんのすこし「時代」や「世界」を見よう。横丁のご隠居俳句を若い俳人が詠んでいるのは、許せないと思っている一老人の言である。

「大きな何かの『黒い霧』」とはなんなのでしょう? 俳句の世界には何かどす黒いものが渦巻いているのでしょうか?(「黒い霧」というと、どうしてもかつてのプロ野球の八百長事件のことを思い出してしまいます。) そして、僕が作っている句も、もしかしたら、大牧氏が許せないという「横丁のご隠居俳句」ということになるのでしょうか?

いや、大牧氏が問題にしているのは「俳人」なのであって、僕のようにどんな句を作ろうが俳句の世界の大勢に全く影響しないような素人は問題ではないのかもしれません。だとすると、なおのこと、「三十代四十代俳人」というのが誰を指すのか気になります。


2008年評論回顧 新しい水 五十嵐秀彦 p122-

五十嵐氏は小川軽舟の『現代俳句の海図』を取り上げ、小川氏がその中で「昭和三十年世代」と括った俳人たちについて、「表現行為の真の動機」となるはずの「私は何?」という問いの欠如が特徴であると言います。「昭和三十年世代」は先ほどの「三十代四十代俳人」と一部重なってきます。大牧氏の批判は、この「昭和三十年世代」にも向けられるのでしょうか?

「昭和三十年世代」の、とりわけ「遊びを前面に押し出す句」(小林恭二)については、「社会」や「時代」と格闘する姿勢あるいは「自己」を凝視する姿勢を問題にするならば、確かに物足りなさを感じさせもします。しかし、それはそれとして彼らの句はとても面白く魅力的であると僕には思われるのです。

ちなみに、「俳句界」を読んでいて物足りないと思うのは「昭和三十年世代」前後、あるいはもっとずっと若い人たちの作品があまり掲載されないことです。いや、もちろん若ければ何でもいいわけではなく、年齢は関係ないと言えばそうなのですが、それにしても… どういう基準で人選がなされているのか、それこそ僕にとっては「黒い霧」だったりして。


●2008年俳壇回顧 肉声と多言語句集 夏石番矢  p126-

俳句が国外でどのように享受されているのか、興味があります。「日本語が滅びる」とかいう問題がとりざたされている昨今ですが、日本語の生き残りのために、俳句は大きな役割を果たしうるのではないかという思いを巡らしたりもします。

夏石氏自らが中核となって実施されたという「東京ポエトリー・フェスティバル」を紹介するこの記事も、興味深く読みました。こうしたイヴェントは、旧来の俳句を相対化し、新しい俳句の可能性を拓くという意味で、貴重な試みだと思います。しかし、次のような発言に出会うと、だから俳句の世界は「獣道」なんだよなあと感じてしまうのです。

(東京ポエトリー・フェスティバルにおける俳句の朗読に対して)旧来の句会や俳句コンテストなどは、個人の自由な発想をつぶす抑圧的で色あせた俳句の催しとなった。

句会ほど創造的でスリリングな場はなかなかないと思っている僕にとって、これは軽い驚きです。俳句の世界にはいろいろな考え方があるのですね。それとも「抑圧的」な句会というのが実際にあるのでしょうか? だとすれば道を踏み迷ってうっかりそういうところに近づかないようにしないと…

俳句は、ますます海外で受け入れられ、実体のある現代の詩となっている。これに対応できない俳人とは何だろうか。

夏石氏は記事をこのように締めくくります。何に取り組むにしろ、広く海外にも目を配ることを求められるのは現代人にとって宿命のようなものでしょう。それにしても、俳句の世界の奥まで進もうとすると、芭蕉も読まなくてはならない、海外の動きにも「対応」しなくてはならない、これはもう本当に「獣道」、いや、「茨の道」ですね。でも、そんな茨の道を行く覚悟を求められているのは「俳人」であって、僕のような素人にはそこまで要求されているのではないと考えるべきでしょう。ところが…


2008年俳句界回顧 今年を振り返って(私のトピック) 小島健  p118-

ここで言う「俳句界」は、「俳壇」より広い範囲を指すようです。「俳句甲子園」や「NHK俳句」等のテレビ番組の話題などを取り上げ、俳句「愛好者」の世界が活況を呈していることを喜ばしいこととして報告しています。しめくくりは「来年は俳句界にとっていかなる年になるやら。うんと飛躍の年でありたいですね。では、ごきげんよう。」と、さすがテレビ番組の司会者のようですね。

それはともかく、小島氏がこの記事の最後の方で、俳句には「文学としての俳句」と「趣味としての俳句」があると書いているところがちょっと気にかかりました。

俳句に限らず、どんな分野でもその道のプロがいて、その裾野にひしめく素人とか愛好者と言われる人との力の差は歴然としています。僕などはもちろん「俳句界」の裾野にひしめく愛好者の一人に過ぎません。しかし、自分の句が「文学としての俳句」とは別物とみなされるとしたら、ちょっと悔しいですね。だれにでも、プロをギャフンと言わせてやりたいという野心はあるもの。そんな野心が、俳句の世界のもう少し奥まで分け入ってみようとする原動力となっていることはまちがいありません。そうであるならば、「趣味としての俳句」であれ、この先に待ち伏せる「獣道」は避けて通れないとの覚悟は必要なのかもしれません。




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