俳枕
暗峠と橋閒石
広渡敬雄
「青垣 5号」より転載
海抜445メートルの暗峠(くらがりとうげ)は、生駒山の南側に位置し、大阪と奈良を最短距離で結ぶ山道として古代から利用され、地蔵堂や燈籠が残っている。
芭蕉は、最晩年の元禄7年9月9日に奈良からこの峠を越えて大坂に行き、同年10月12日南久太郎町の花屋仁左衛門方で51歳の生涯を閉じた。
又峠を下った奈良側には、東国から徴用され、九州に向かう防人の万葉歌碑がある。
〈難波門に漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲そたなびく〉
菊の香にくらがり登る節句かな 松尾芭蕉
たましいの暗がり峠雪ならん 橋 閒石
晒井のたとへば暗峠越え 岡井省二
消炭を干して暗越えの家 岩崎照子
橋閒石は、明治36年金沢市に生まれ、昭和7年より寺崎方堂門下として、俳諧文学、連句の研究と実作に努めたあと、同24年創刊の連句と俳句の「白燕」代表同人。
同26年の第一句集「雪」以降生涯十句集。晩年に至る程、俳諧の世界を深めた。
永らく神戸の大学で英文学を教え、連句に於ける日本的なものと英文学を基調とする西欧的ものの二つが相重なる多様性を特色とする。
同59年「和栲」で蛇笏賞、同63年「橋閒石俳句選集」で詩歌文学館賞受賞。「和栲」には、代表句「階段が無くて海鼠の日暮かな」がある。
人口に膾炙されるこの句を、正木ゆう子は「句そのものの無意味性と脈絡の無さは、読み手を途方に暮れさせ、閒石が薄暗い二階で海鼠をつまみにお酒を飲んでいる気がする」(俳論集「起きて、立って、服を着ること」)と評し、桂信子は、「清らかさ」「優遊の精神」「虚無の思い」を一生貫いた俳人橋閒石の例えようのない物悲しさの表現とし、生涯の最高句と絶賛する。
句集「荒栲」の後記に「喜びも嘆きも、安らぎも苦しみも、病み衰えまで含めて一切遊ぶことを願って来たし、それらの句が人の目に映ることは、「あそび」の冥利に尽きる」と述べて、自身の作句信条とした。句碑が一切ないのも潔い。
平成5年89歳にて逝去。「白燕」は和田悟朗が継承。同15年「橋閒石全句集」(沖積舎)が発行され、我々を魅了して止まない閒石俳句の全貌を垣間見ることが出来る。
「現代仮名遣」を用い、「かな」の使い方の名手とも言われる。
秋の湖眞白き壷を沈めたり
空蝉のからくれないに砕けたり
顔じゅうを蒲公英にして笑うなり
火の迫るとき枯草の閑かさよ
目ばかりの近江の子鮎貰いけり
秋風にむかしの馬の匂いかな
縄とびの端もたさるる遅日かな
銀河系のとある酒場のヒアシンス
ラテン語の風格にして夏蜜柑
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