2008-12-14

深いとか浅いとか……いや、言い出したのは自分だ、すまん 上田信治

深いとか浅いとか……いや言い出したのは自分だ、すまん

『現代詩手帖12月号 現代詩年鑑2009』高柳克弘氏記事に応答して

上田信治


〈俳句鑑賞においては、しばしば「深い」ということがポジティブに語られる〉と、書き出される「現代詩年鑑2009」の高柳克弘さんの文章は、始まってすぐ〈上田信治は、芸としての笑いと比較しながら、俳句の「深さ」について考察している〉と書き継がれ、約一名の自分をびっくりさせた。

上田は、赤塚不二夫と立川談志の対談を話題にし、笑いに高級な笑いがあるのかと問いかけた立川に対し、笑いには絶対に「深い浅い」があるのだ、と応酬した赤塚の意見に賛同する。
(『現代詩手帖12月号 現代詩年鑑2009』高柳克弘「ドットの詩」 p.154-)


たしかに、そういうことを書きました。元になった「対談記事」は、こう。

談志 だってネ、プログラム、つまり名札が出るだけで “ワァッ” と笑いが起るときがある。まだ本人も出てこない。出てこないんだから何も喋ってない。客は何も聞いて無いはずなのに“笑う”でしょ。赤ん坊でもヘソを吹いたりすると笑うネ。あれ、赤ん坊もやはり生きてるんだから、緊張してるんですよ。(…)枝雀が「笑いは緊張と緩和だ」と言っていたというが、そう考えたなら当っている、偉い奴だ。勿体ないことをしたネ。そういう訳でネ、弛緩したいんなら、俺で弛緩しようが、こん平で弛緩しようがいいじゃないかって意見になってくる。

赤塚 シカンって死んだ女をヤルことじゃあないんだっけ。

談志 …………。なんで自分たちの方がいい笑いで、向うの笑いがセコだと決めるんだっていう問題。どうですか、ニャロメ先生。決めないと自分が参っちゃうからかね。

赤塚 それはね、やっぱり……。

談志 漫画だって、自分の漫画は “いいギャグ” だっていうのは、自分がいくらそう思ったからって、言ったって周囲が認めなかったらダメでしょ。「それを認めてくれる人がいる」と、それも大衆もいいけど大衆ばかりじゃないと、「あのうるせえ談志が認めたろう」と「手塚さんが認めたろう」という、そういう一つの流れの中に自己が帰属してるところで安定感を持ってる。だけど、その安定感ってえのは果たしてそんなに凄いことなのか、ということに今の若い奴ら気付いてるんじゃねえかと……。だったら、なにも、そんないいギャグじゃなくてもいい。弛緩をするためだけなら「いい天気だねえ」「能天気だなあ」この程度でいいじゃねえかと。……どうですか、大将。

赤塚 違う。

談志 違うっていうよりは、不愉快なんじゃないの。

赤塚 もっと深いんだよ。
(『これでいいのだ。赤塚不二夫対談集』p.166- メディアファクトリー刊 2000年)

対談はこの前後に長く続いていて、自分はそれを乱暴に要約して、談志に対して不公平な書き方をした*1。実際のところ、氏は、正直にも〈決めないと自分が参っちゃうからかね〉と、告白してしまっているわけで、つまり、談志も、笑いには深浅の区別があると信じたい「こちら側」の人間なのだ。

それでも、こう言わずにいられないのが、談志なのだろう。自分たちが頼みとする「いい」と「セコ」を分ける基準とは、相対的な「好み」の問題に還元されてしまう、うたかたの区別にすぎないのかもしれないよ、と

そういう話なら、こんな引用もしてみたくなる。

「だって、一人の人にはいい音楽だけどもう一人の人にはダメとか、そういうことしか言えないはずじゃないですか」
私は理恵に替ってほしくなっていた。(…)一面的な論理の使い方を覚えた十代の精神というのは結局言葉だけでは変えられないということなんだろうと思いながら言った。

「実際に自分の目で確かめられないところにも世界があるっていうことを、ゆかりは実感できないだろ」
「それとこれとは関係ないんじゃないですか?」
「関係あるんだよ。
実感する?」
(保坂和志『カンバセイション・ピース』p.333- 新潮社刊)

続けて保坂和志は、〈(私というものは)自分が存在していない場所を理解するための媒介のようなものなんだということと、音楽や絵や文学にはいいとダメを測る尺度が厳然とあるということの二つが、同じ基盤に立つことなんだということ〉とも、書いている。(同 p.335)

ここで語られているのは、その「尺度」は、決して好みによるものではない、という確信である。*2表現行為の「いいとダメ」は、個人あるいは共同体のその時々の選好よって決まるのではなく、ただ「厳然と」ある。つまり、言っていることは赤塚さんといっしょだ。

その根拠は、伝統でも、先生でも、多数決でも、時代でもない。

ここで話は、ようやく高柳さんの文章に戻る。

今年の角川俳句賞の受賞者の言葉(天草の地を)深く感じて、深く詠んでゆけるよう努力したい〉(『俳句』2008年11月号 角川俳句賞「受賞のことば」安倍真理子、次席となった榮猿丸さんが、審査員から「軽い」「浅い」と評されながら、池田澄子さんに〈浅いよさ、浅い個性がある〉(同・選考座談会)と認められたことの対比に、高柳さんは注目する。

聖堂を出て水仙の風のなか   安倍真理子*3
炎天のビールケースにバット挿す 榮猿丸

安倍さんの句が「深い」かどうかはともかく、論点は、榮さんの句の「浅さ」の質のほうにあって、高柳さんは、他に〈ビニル傘ビニル失せたり春の浜〉〈ガーベラ挿すコロナビールの空瓶に〉〈ダウンジャケット継目に羽毛吹かれをり〉〈フライドポテトの尖にケチャップ草萌ゆる〉といった句を挙げて、こう書いている。

なぜ作者がこのような深さも広がりもない「点(ドット)」としての事象に注目したのか、読み手は戸惑うだろう(前掲高柳)


しかし、この些細な発見は、確かに詩を立ち上げている。それは、このような極小の対象にすら発見を見出してしまうまなざしに由来している。作者の人生とも、そして歴史や文化とも切り離された “どうでもよさ” への執心に圧倒されるのだ。(同)

人生に対する深遠な洞察も、世界の真理への肉迫もない榮の句に、「深さ」が感じられるとするならば、そこにメタレベルの更新が行なわれているからと考えるのが自然である。俳句における「深さ」とは、常識や通念の向う側を透視する力と同時に、旧来の俳句的発想や文体----すなわち “型” の突破力から生まれてくるものではないだろうか。(同)

〈“型”の突破力〉とは、“型”「を」突破する(壊しつつ更新する?)力という意味で言われている。

つまり、猿丸さんの句は、その「浅さ」に、旧来の俳句感に変更を迫る新しさがあり、そこに価値があるのだ、と。

ここから高柳さんの文章は、小川軽舟さんによる「型の文学としての俳句」という認識*4、それに対する、高山れおなさんの駁論などに触れつつ進む。

そして〈榮の句に端的に示されている “点” の詩情が、型の文芸としての俳句観をを突破してゆく力の一つとなっていくかもしれないと期待する所以である〉と結ばれる。

そういえば、書きながら、思い出したのだが、今年の夏の終りごろ高田馬場で、高柳さんと「深い・浅い」の話をしたんだった。

上田 前から「深い」ってふしぎだと思ってて。「深〜い!」っていうのは、評価なんだけど、感覚に近いじゃないですか。価値に対する感覚? 感情と言ってもいいんだけど、それは好き嫌いより、ずっと………「深い」(笑)。「深い」ってなんなんだろうね?

高柳 「物語」なんじゃないですか。

すごくびっくりしました。高柳克弘は「深さ」とは「物語」なりと言うか、って。

自分はそれじゃ不満で「でも抽象的な音楽とか、味とかについても『深い』って言うじゃない。それは必ずしも物語ではない」って言ったら、あなたは「あ、なるほど」みたいに言ってたけど。

あの「物語」っていう言葉が、頭に残っちゃって(人と話していて、互いの持論が入れ替わってしまうのは、よくある話で)。けっこう、あれから、また考えて。

たぶん「深い」っていうのは、「見えない」あるいは「手が届かない」っていうことなんだよね。これが、目下の自分の結論。

たとえば、深い森とか、深い湖とか、深い穴って、言うでしょ。深い山と高い山の違いは、見えない部分があるか、どうかなわけで。

つまり、何かを「深い」と思うっていうのは、その何かが見えない部分に触った、っていうことなんじゃあないか。

だとすると。

あなたの言った「物語」っていうのは、まさに見えない「全記憶」(ベルクソン的意味で)っていうことになるんじゃないかな。

それって、その人の「私」にとって、メタ(高次の)レベルに位置するものだよね。猿丸さんの句について、あなたの言った〈メタレベルの更新〉ていうのは、いちばん射程を長く取れば、そういうことになるなんじゃないかな。

赤塚不二夫は、その「深さ」を知っていたから、立川談志の相対化を拒絶したのだし、保坂和志の「自分の目で確かめられないところにも世界はある」っていうのは(分かりにくいけど)、私という個別は、言葉や意識に先行する普遍性を抱え込んでいて、その自分じゃ見えない先行するものの中に、絵や音楽を「深い」と思えることの根拠がある、ということを言っていたんだと思う。

ところで、猿丸さんの句は、そんなに「浅い」だろうか。

たしかにこれらの句は、現代的なミクロの景を描いている。でも、取るに足らないものを描くことは、古来、俳句の定法だし、これらの景の情趣が、自分にはとてもよく分かる(むちゃくちゃ青春映画じゃないですか)。つまり、そんなに「浅く」ないと思うんだ。
(12/14 3:01 加筆)

俳句は、もっと「浅く」「薄く」なってみせることができるよ。

ただ、猿丸さんの句は、いわゆる伝統文学としての「深さ」や「広がり」にとぼしく、あるいは既存の「型」に照らしての完成度を問題にしていないように見えるから、その意味で「浅く」見えるのかもしれない。

根が切れていると見る人もいるだろう。

高柳さんは、猿丸さんのモチーフが〈深さも広がりもない〉つまり歴史的・文化的な後ろ盾を持たないように見えることに、驚いている。

あなたにとって俳句は、そういう〈物語〉が存在することによって、詩として成立するものなのかもしれない。猿丸さんの俳句は、そういう俳句観に、攻撃かいたずらをしかけているように見えるのではないか。

けど、猿丸さんは、別に、伝統や「型」へのアンチとして「浅い」んじゃない(それは作家でいえば筑紫磐井さんとかであって)。

むしろ、猿丸さんが感じている俳句の「かっこよさ」というのが、まずあって、それに見合うだけのモチーフや言い方を、必死で探して、ああなっているのだと思う。*5

それは「サバービア俳句」と題して、猿丸さんと話した記録を読んでもらっても、感じられると思う。あの人は、本気で、俳句をかっこいいと思ってるんだよ。

その「かっこよさ」が、猿丸さんを俳句の伝統につないでいるから、「根」は切れているようで切れていない。

だから、その「浅さ」は、俳句のいわゆる「深さ」を、いらない「深さ」にしてしまうものにもなりうる。(加筆ここまで)

それにしても。

高柳さんが「こちら側」*6の俳句に、真剣なものを認めてくれたことを、多としたい。ていうか、端的にうれしい。ありがとう(ああ、すっかり私信だ)。

だって、自分ちの主宰が描いた構図をあっさり描き直して、伝統に依拠しないことは、時代の表現としての誠実さなんだ、と言ってくれてるんだから。

今年の『鷹』誌上での冨田拓也さんとの対談でも、高柳さんは〈俳句は、もっといえば芸術はすべて、前衛的であるべきと思っています(2008年4月号)と発言していて、それは、この人の作家としての立ち位置、作風のことを考えると、当り前の認識ではない。

これからの、あなたの作品が楽しみです。

あと、僭越ながら、猿丸さんの50句で、「浅く」て、どうでもよくて、かっこいいのは〈白樺の窓に歯磨く浴衣かな〉だと思います。



*1 〈亡くなった赤塚不二夫と、立川談志との対談記事で、立川談志が、笑いに高級 な笑い、低級な笑いという差が本当にあるのだろうか、それは、客の(自分を高 級と思いたい)自己満足によって作られた区別に過ぎないんじゃないかという、 疑問というか挑発を投げかける場面があった。赤塚不二夫は、それに対して色を なし、そうじゃない、笑いには、ぜったいに深い浅いがあるんだ、と強い調子で 反論していた。〉(『里』2008年10月号「成分表」上田信治)

*2 あるいは〈私が生まれる前から世界はあり、私が死んだ後も世界はありつづける〉(保坂和志『世界を肯定する哲学』p.232)ことを、当の〈私〉が実感できるか、というテーマがあり、その例証として、いいとダメを測る尺度が〈私〉を越えて厳然とあるということが示される。

*3 たしかに天草ですね、という。

*4 〈極論すれば、俳句の作品とは、演能や茶の点前のように型を現わす行為なのではないか〉(小川軽舟『現代俳句の海図』p.205-)

そういえば、作家・小川軽舟は、かなりの部分、「点」の詩情の人だと言えそう。〈きじばとの頭まるしよ春落葉〉〈抜かれつつ釘の伸びゆく薄暑かな(『手帖』)

*5 猿丸さんは、さらっと「いや、俳句は型ですよ」と言うかもしれない。小澤實の弟子だし。

*6「こちら側」と書くのは、文中に、桂信子の「あっち側」発言が、典型的な「深い」「浅い」系の発言の例とされていたから。

この場合の「こちら側」には、とりあえず猿丸さんがいます。



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1 コメント:

tenki さんのコメント...

高柳克弘「ドットの詩」、拝読。

クリアカット。かつきわめて意義深い一文でした。ただし、信治さんの「成分表」を引いた箇所を除いて。

この脈絡での深さ・浅さを引くと、話がややこしくなります。

今回、信治さんが、「いや、これ、書いたことには書いたけど、ちょっと待って」と(言っているように読めます)いうのは、よくわかります。

ただ、繰り返しますが、きわめて意義深く重要な一文。これが俳句の雑誌じゃなく、「現代詩手帖」誌上だったことを、どう受け止めればいいのでしょう。そこのところ、ちょっと複雑な気分。