2008-12-14

〈出現〉と〈ブレイクスルー〉の狭間 神野紗希

〈出現〉と〈ブレイクスルー〉の狭間 
あたらしい俳句の登場とは


神野紗希


さいばら天気氏が書いた「あたらしい俳句の登場」(2008年11月15日ウラハイ記事)を読んだ。

私のブログの記事から「どっちにしても、俳句が面白くなるかならないかは、どんな人が活躍するかってことだと思うし、その指標の大きなひとつである角川俳句賞の結果は、俳句が面白くなるかどうかを、大きく左右する」の部分を引用し、「指標はひとつでない」「あたらしい俳句、まだ私たちが経験していない俳句(そんなに大袈裟に考えなくても、「おっ、ちょっと新鮮」ということでも充分に好ましい)の出現する場所は、可能性としてたくさんあるはずだ」と述べている。しかし、本当に、そんなに多くの指標はあるのだろうか。「あたらしい俳句(中略)の出現する場所は、可能性としてたくさんある」とは、私は思えない。

そもそも、〈あたらしい俳句〉に期待するところが違ったということがこの疑問の原因で、さいばら氏は、とりあえず〈出現〉することを念頭に置いており、私は、〈出現〉して、なおかつ〈活躍〉してほしいと思っていた。彼の言葉を借りて言えば、〈ブレイクスルー〉してほしかったのだ。

とりあえず〈あたらしい俳句〉の出現を望むのであれば、総合誌の若手欄でも、結社誌の三十句選でも、同人誌の片隅でも、インターネットのブログでも、「週刊俳句」でも、その可能性はある。

実際、すでにもう多くの〈あたらしい俳句〉が出現しているかもしれない。俳句が新作のチョコレートのように、購買者の口コミで売れていくなら、そのように店頭に並ぶ(〈出現〉する)ということが、ブレイクスルーへの可能性を十分孕んでいる。

しかし、俳句の場合は、どれだけ売れたかを換算することもできないし、そもそも購買層が新作を望んでいるとは限らない分野なので、どこかの店先に並ぶだけでは、注目されることはほぼないだろう。誰かちゃんとした人が見つけて、「いい」って説明しないと、全国販売にはならない。

私は、やっぱり、〈あたらしい俳句〉に活躍してほしい。ずっと変わらないなんてつまらない。けれど、私には、もし見つけたとしても、〈あたらしい俳句〉を押し上げるだけの力がない。だから、押し上げる力の機能する場所でそれが見出されてほしいと思う。

〈あたらしい俳句〉というものは、常に上の世代に見出されて来た。さいばら氏の挙げている摂津幸彦にしても、高柳重信の目にとまり、俳句研究という場があって、初めて現れたといっていい。最近でも、俳句研究賞は鴇田智哉氏や高柳克弘氏を拾い上げ押し上げてきたが、その「俳句研究」がなくなった今、角川俳句賞の権威は、なおさら高まっているだろう。

〈出現〉と〈ブレイクスルー〉が同時に成し遂げられる地点、つまり、見出して、かつ活躍する場所を提供できる地点は、実際は本当に少ない。角川俳句賞は、その数少ない地点であり、その中でもおそらく頂点にある。

しかし、権威だからこそ、そう簡単に〈あたらしい俳句〉認定ができないのも事実だ。認定して、間違っていたら、権威は失墜する。だから、完成度(これは審査員によって意味の異なる言葉なので要注意だが)が求められるし、欠点が嫌われる。それも当然だ。その状況を踏まえてか、さいばら氏は次のようにも述べる。

一面、角川俳句賞ではこれからもずっと〔従来的で安定的な作品〕が選ばれ続けるということであっても、それはそれで興味深い事態かと思う。〔新しいもの〕は次点に位置するという図式。
これには賛成だ。実際問題、権威が〈あたらしい俳句〉を選び取るのを指をくわえて待つよりも、次点が面白いという位置づけをする方が、〈あたらしい俳句〉を押し上げるために有効だろう。権威にとっては、次点に〈あたらしい俳句〉を選ぶこと自体、きっと冒険なのだろうから。

しかし、この賞を眺める人たちに、「[新しいもの]は次点に位置するという図式」がどこまで共通認識として持たれているかというと、今のところ心もとない。この共通認識がマイナーである限り、次点に位置したものが〔新しいもの〕としての力を持つ機会は少ない。

だから、今、私たちがもし、「〔新しいもの〕は次点に位置するという図式」を定着させたい、誰か(たとえば今年の角川俳句賞の次点の榮猿丸氏)に注目したい、新しい、そう思うのならば、野党のように野次を飛ばすのではなく、諦めず、それをきちんと作品・作家評として、真面目に書いて形にしていかなければいけないはずだ。

真面目な批評を書かない限りは、印象批評にしかすぎず、審査員にただ野次を飛ばしているだけになる。選ばれない理由も、きちんと注視しなければならない。審査員は、その理由を、真摯に公表してくれているのだから。さいばら氏が「〔新鮮で個性的な作品〕がブレイクスルー(突破)を成し遂げると、それまで歯痒い思いをしていた観客は、案外、気が抜けたような状態に陥るのではないか」と書くのは、そうした「野次」の精神をどこかで実感しているからではないか。

「〔新しいもの〕は次点に位置するという図式」は、権威がもし発言しなくても、それなりの数が、それなりの評言を積み重ねていくという努力によって、作りだすことが出来る。真にブレイクスルーを望むなら、その努力を怠ってはならないはずだ。本当に〈あたらしい俳句〉が出現したときに、それを下から押し上げていける力に、私たちはなれなければならない(いや、もちろん、自ら〈あたらしい俳句〉そのものを生み出すにこしたことはないが)。

ということで、ここで「週刊俳句」に、今年の次点、榮猿丸特集が組まれたりすれば、願ったりである。

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