2009-01-04

鷹女への旅  第15回(最終回) 三宅やよい

 鷹女への旅  第15回(最終回)

 寒満月こぶしをひらく赤ん坊



 三宅やよい

初出『船団』第78号(2008年9月1日)




『 羊 歯 』 の 参 加 と 脱 退

俳誌『羊歯』には湊楊一郎氏と共に新興俳句の拠点となった「句と評論」を創刊した藤田初巳氏も参加している。

今回も両者が中心になって編集を方向づけていったのだろうか。藤田氏から編集の方法を教わりながら実務をこなした久々湊さんはさぞタイヘンだったろう。一巻の遅刊もなく百号まで続いたという『羊歯』のバックナンバーはきちんと合本のうえ俳句文学館に保存されている。

「俳句評論」以外にも発表の場がほしいと自ら希望して参加した俳誌であったが、二号のあとがきに早くも次のような呟きを書きとめている。少し長いが、その後の鷹女の動静にかかわることなので全文引用してみたい。

発表誌をもつというだけの安易な気持ちで始まったのだが、一歩踏み出してみるとひとりのことでないだけに、そうやすやすとはゆかぬことに気づいた。みんなでやるという気楽な面と気楽ならざる面とが交錯して雲を摑むような漠漠たるものが覆いかぶさり、自分の心の統一がつかないでいる。しかし、健康のためにもあまり物事を考えないほうがよいと、自身に言い聞かせている。 毎月発行には無理な点のあることも予想されたので、隔月に……と申し出たが容れられなかった。それはとにかく、創刊号も見ないうちに第二号の準備に取りかかることは、闇のなかに泳ぎ出すような気がして、まことにおぼつかない。湊氏諒解を得て、私方に支部をおくことにしたのは、手ぢかな会員たちの切望もあり、今後なにかと連絡をとるのに好都合かと考えたからで、他意はない。(「羊歯」第一巻第二号「後記」)

「紺」「俳句評論」もそうだが、鷹女は女性俳句の選者などを引き受けても短期間のうちに辞退することが多かった。「ゆさはり句会」も諸般の事情があったとはいえ定期的に出席したのはある時期に集中している。これは私の憶測だが、鷹女の神経質で完璧さを求める性格を考えると、自分を欺きながら義務や義理で選句をしたり、妥協して句を作る自分を許せなかったのかもしれない。そうは言っても、今月は句がないから出せない、と泣き言をこぼす会員を叱咤激励して出句させる場面も何度かあったようで、毎号はきついといいながらも鷹女は力の入った作品を毎月一〇句出し続けていた。

「自愛篇」を書き上げることで自分の中で区切りがついたのか、鷹女は9号あとがきに武蔵野周辺の会員の連絡場所としておいていた「支部を解散」と明記。以後「羊歯」を脱会した。自筆年譜を見ると「考え方の相違により退会」とあるが、そのあたりの事情は私にはわからないし、推し量る必要もないだろう。ただ同好の士が集まってやってみても違いがわかれば離れるのは自然なことだし、それはそれで仕方のないことだったろう。


自 愛 の 難 し さ

  雪を掘り日をついばめり自愛の鴉

「羊歯」第一号冒頭に寄せられた句である。鴉は鷹女自身が投影されたものだろうが、モネの描いた雪の日の画面を思い起こされる情景である。厚い雪雲が切れて薄日の射し始めた雪の上を真っ黒な鴉が矢印のような足跡を散らしながら何かをついばみながら歩いている。それは鷹女が『橅』のあとがきに書いたように激しい雪の後、つかの間の休息のときであったかもしれない。

豪雪が歇んだあとの橅の梢から雫がとめどなく落ち続ける─止んだと思ふと、またおもひ出した様にぽとりぽとりと落ち続ける。

豪雪が去ったあとの静けさ。それは鷹女の最終章にふさわしい幕開けだったかもしれない。それは前回述べたように鷹女にとって死後の場所から今いる自分を見返した風景であったろう。

優れた鷹女論を書いた飯島晴子はこの句集について次のように述べている。

『羊歯地獄』で鷹女は、人間としてはそこまで踏み込まないほうがよいところまで踏み込んでしまったようである。見るべきものでないものを見てしまったあとの人間の時間はどのように生きられるものなのであろうか。身を自然にまかせてあるがままに生きてきた女性と、鷹女のように、いつもあるがままのものを意識してこれに逆らってきた人とでは、老年の訪れかたやその様相がちがうものか。それとも、結局おなじような形でおなじようなところへ至りつくものなのか、それが作品の上にどういうふうに表れてくるものなのか。

正直なところ前述したように対象を見る視線に静かな「諦観」が感じられるものの、彼女にとって何が「自愛」なのか私にはわからない。自分を愛し甘やかしている部分など微塵も感じられないのだ。自己投影している対象も安らいでいるわけではない。どの句も言うに言われぬ寂しさを含んでいる。この世界に及んでも鷹女はつくづく悲観的であり、自分を見張る目を緩めることが出来ない人だ。鷹女が安らげるのは自らの美意識で作り出された世界ではなかろうか。

  昼は灯が消えてたたずむ絵らふそく

  鍵屋老い九月真紅の鍵作り

  星出でてより向日葵は天の皿

  枯羊歯を神かとおもふまでに痩せ

  金銀の花ちる水を飼ひ殺し

鷹女は自分が最も得意とする世界を『羊歯地獄』で禁じ手として封じこめていた。自分の感覚でストレートに捉えるものが屈折や逆説を含まずそのまま表出する物足りなさを自分で感じていたからであろうか。自分の気の赴くままに句を作ればそれば自愛なのに、と思うが鷹女はそんな単純な満足感から遠く隔たった場所に来てしまったようだ。昭和四十五年「羊歯」を退会したのち鷹女は「俳句評論」に復帰。三月号の記念すべき一〇〇号に「浮寝抄」と題する作品を発表している。

  洞窟に棲みかんむりの欲しい魚

  くるるるるるる音無谷の羊歯のうぶごゑ

  ひれ伏して湖水を蒼くあおをくせり


鷹 女 の 断 念

「羊歯」に発表した「自愛篇」で鷹女は全ての句を句集に収めているわけではないが、「俳句評論」に発表したこれらの句は全句『橅』に収められている。高柳重信の記述によると商業誌に送る句稿から「俳句評論」へ発表する句まで事前に全句重信に送り、そこから重信が選び出したものを中心に発表していたそうである。句会というフィルターを持たない鷹女にとって重信の選句眼は欠かせないものだったのだろう。ただ、重信の選を信頼しながらも、まるごとその意に従うのはプライドが許さなかったのか鷹女が発表したものを後からみると重信が落とした句でも自分がいいと思う句のいくつかそのまま残してあったそうだ。

その選句について、鷹女晩年に電話で(その電話が重信への最後の電話になったそうだが)重信と句の良し悪しについて言い争いになった句がある。重信にその句のダメな点について説き伏せられた後、「私ももうだめねぇ」とつくづくため息をついたという。その句については川名大が「俳句評論」128/129合併号で触れている。

  東西南北いづこも濡れる濡れ桔梗

川名はこの句について重信が俳句評論社で語るのを聞きながら「三橋氏の思いが溢れ、そのため、やや俳句としての抑えを欠いて流れてしまう作品のように、ぼくはそのとき、耳でぼんやりと考えていた。」と書き綴っている。

なぜ鷹女はこの句にそこまで執心したのだろう。この句に似た作りの句を鷹女は過去二回発表している。

  雨風の濡れては乾き猫ぢやらし   『白骨』

  鳥雲に濡れてはかわく反り梯子   『橅』

戦中、戦後をかいくぐって発表した句には天地を濡らしては乾く雨風の繰り返しに、猫じゃらしは凜と生え続けている。可憐にして強いこの草に鷹女自身の生き方が投影されているとも言える。

第二句では去りゆく鳥に、庭に忘れられた梯子は濡れて乾きながら反り続け、ついには木目から罅割れてしまうだろう。そんな予感を含んだ句である。それが最後の重信と言い争いになった句は、びしょぬれの天地に抵抗することなくずぶぬれになってしまう桔梗に自分を投影している。

鷹女には後がなかったのだろう。いったい鷹女が何を「もうダメねぇ」と言ったのか、重信が具体的なことを語っていないのでわからないが、この三句の変遷は、鷹女にとっては他人が思う以上に自分の句の揺れ具合を図るバロメータだったのかもしれない。そのため息は、死を抱え込むことにより逆照射した晩年の世界を詠む試みをしていた自分が気弱になり、老・病・死に絡めとられた寂しさであったろうか。

『橅』は昭和四十五年に上梓され、重信が編集長を務める「俳句研究」は翌年、三橋鷹女特集を組むことになる。鷹女は『橅』上梓のあとに何度も入退院を繰り返し体力がだいぶ落ちてきていた。重信も鷹女の集大成の評価を生前のうちに定めたいという思いもあったのだろう。この特集号に掲載された評論の多くがのちの三橋鷹女全集に収録され、最後の力をふり絞って鷹女自身の年譜が作成されたことを思えば大きな成果だったろう。鷹女はこの特集号が組まれた一年後の昭和四十七年四月七日にその生涯を閉じる。


鷹 女 の 最 期

鷹女の最期の様子を吉祥寺の家で一緒に暮らしていた陽一氏の嫁の絢子さんより四年前に伺った。

三宅 鷹女さんは、体をいたわりながらも、とぎれとぎれに入院されてましたよね
三橋 それはもう胃の調子がよくなかったから入院したりとかね。それでもちゃんとした身体の検査とかはしてないのよね。だからかもしれないけどね。昔から胃下垂はあって食欲はなくて、というのはありましたけどね。食べるのが苦手というのか。
三宅 ああ、やっぱり食は細かったんですか。
三橋 そう
三宅 何か三十何キロしかなかったとか
三橋 三十七キロぐらいね
三宅 身長はどのくらいおありだったんですか
三橋 一五七ぐらいですけね。
三宅 絢子さんは働いていらっしゃたからお孫さんは鷹女さんがみられたそうですね。
三橋 そう。近くの職場があったんですけどね。家に主婦が二人いてもなんですしね、それに経済的な事情ももちろんございましたけどね、私はあまり家事は得意じゃないんだから。父も開業やめたでしょう。二人で何とか見るからっていうことで、私はそのまま勤めていたわけよね。二人できたら辞めよう、って思っていたんだけど、その二人目ができなくってね、そのままずるずるとやってたんですよ。
三宅 じゃあ、二人目のお子さんができたときには仕事を辞められたのですか。
三橋 そう、でもそのときにはもう母が体を悪くしてね。四十七年ですからね。
三宅 そうですか、じゃあ、ほんとに晩年に近いころなんですね。
三橋 そう
三宅 お孫さんへのしつけっていうのは厳しかったですけ
三橋 そうね、いつでも緊張されている方だから、子供のほうも緊張してしまうっていうのはありましたね。
三宅 じゃあ、絢子さんが家庭に戻られて、入れ替わるように鷹女さんが入院されたわけですね。
三橋 うーん、入院っていっても最初は調子がよくないからっていうことで、そんなに長いことは入院していないのよ。だから、そんなに病院で長く過ごしたっていうのではないんですけどね。それで、最後は三月二十一日でしたかね、調子が悪くなって、できたら先生呼んでっていう感じでね。その場ですぐ、先生呼んで近くの病院へ車で運んだんですけどね。
三宅 ああ、じゃあよっぽど悪くなって、二十一日に入院されてなくなられたのが八日ですよね。
三橋 そうそう、でもその前にちょっと手術したんですよ。でも、もうお手洗いにも自分でいけないし、袋ぶらさげて生活しなきゃいけない、そんな生活はもういいわ、っていうような気持ちが母の気持ちとしてあったんじゃないですかね。だから、生きる気をなくしてしまって、というのかそういうこともあったのかもしれないわね。だから、その手術して、その術後という感じで亡くなったんですけどね。
三宅 じゃあ、倒れるように入院なさって、その後は病院で寝たきりというのか、そのまま亡くなられたわけですか。
三橋 そうですね。
三宅 意識はおありになりました?
三橋 ああ、それはもう、最後まで。

鷹女のような人が最期まで意識があったのはある意味非情ではないか。絢子さんの話を聞いたとき直感的に思った。最後の最期まで鷹女は目を凝らしていたのだ。追悼号では鷹女の枕元に残されたノートから二三句を発表している。それは鷹女が断念した「東西南北いづこも濡れる濡れ桔梗」から始まり、「寒満月こぶしをひらく赤ん坊」で終わっている。最期まで句を書き綴った鷹女の精神の強靭さには、脱帽するばかりである。

その作中鷹女は「千の蟲鳴く一匹の狂い鳴き」と最期まで表現の突っ張りを緩めずにいるのだ。「骨透いて蟲よ不眠の夜が来る」と最後から六句目を読めばこの蟲は鷹女自身であることは自明であるが、死床に横たわり眠られぬ夜の焦燥感に身を焼きながらも鷹女は俳句を手放さなかった。最後まで自分の感情に流されことなく言葉で自分の世界を構築した。これだけ知性の抑制の効いた人はいなかったのでは、と最後の作品を読むと哀しくなる。たいていの人は間近にせまる死への恐怖と不安に自分を平衡に保つことさえ難しいだろう。

鷹女追悼の特集号で永田耕衣は「真に惜しむべき人の死には、親しき生者たちに「死んではならぬ」と強く思わせる無限憂愁のエネルギーがある。」と述べている。確かに惜しむべき人の死は終わりではない。「真に惜しむべき人」のため鷹女を語り継いだ人たちから、私は鷹女を知った。思いがけず俳縁をいただいた鷹女について考えた四年間、様々な方から資料や励ましの言葉をいただいた。拙い筆で書き綴った文章を読んでいただいた方々に感謝しつつ、私の「鷹女への旅」もこれで終了とする。


( 了 )


【参考文献】
『三橋鷹女全集』立風書房
「義父との歳月」久々湊盈子 「現代俳句」2002年6月号
「羊歯」第1号~9号(1969年)
「俳句評論」128/129合併号(1972)ほか。


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