2009-01-18

アウトロー 斉田 仁

アウトロー

斉田 仁
『百句会報』124号・2008年9月より転載


雑誌『東京人』2008年10月号の特集は「アウトロー列伝」である。銜え煙草で麻雀を打つ、色川武大氏の表紙写真が印象深い。

あの時代のアウトロー達の群像をときに非情に、ときに愛惜をもって描いた「麻雀放浪記」は、色川いや阿佐田哲也の忘れられない作品であった。

アウトローといっても、その時代によってさまざまな意味合いもあろうが、どの時代でも共通しているのが、時の権力を素直には認めないという反抗の心情である。こういった気持ちはこの国ばかりではなく、たぶん世界共通なのではあるまいか。

小林多喜二のプロレタリア小説「蟹工船」が若者の間に人気を得ているという。多くの理由はあろうが、現在只今の時代を振り返ってみると、納得できるところもある。こころの奥底で誰もが不安や不満を持ち、権力に素直には従えないという、ある意味でのアウトロー的な心情の中にいるのである。

私は前に国定忠治の時代の上州を描き、そこから生れた短詩形文学との関連を考えた。上州人が口べたなせいでもあるが、だらだらと心情を述べるのではなく、短い言葉で率直に吐露するという方法のひとつが俳句であり、詩であった。

村上鬼城、萩原朔太郎、伊藤信吉、土屋文明、大手拓次、山村暮鳥などその短詩の根底にあるものは、みなこの反抗の心である。誰もが声高に反骨を叫んでいるわけではない。しかし、荒涼たる上州の自然をそのまま書いてその底に昂然たる反抗の心を沈ませている。全員がアウトローといってもよいのだ。

この『東京人』の列伝の中で、映画監督でもあり、作家でもある森達也氏が、フォークソング歌手でもあった高田渡についてこう書いている。

「自衛隊に入ろう」をステージで歌わない理由を、「この歌を聴いて自衛隊に本当に入つちゃった人がいたらしいんだよ」と高田は僕に説明した。当惑しながらも言葉を濁したり、話を逸らすことはしなかった。不思議な人だ。気負いが見事にない。でもこだわりは強い。優しいのに激しい。冷たいのに温かい。……(以下略)

ある意味でこれは上記の上州の短詩作家に似ているところもある。

翻って我々の俳句の世界をみつめてみると、はたして現在こんな反骨を含有しているものがいくつあるのか。自らも含めて忸怩たる思いがある。

現代という軽いものの中で器用に振舞い、ある意味でこの時代の薄さに迎合した作品のみが生まれ続けているといってもよい。俳句というのものが大衆の中で生れてきたという、その特性をもう一度思い起こす時代がきているのではないか。

先の高田ではないが、声高ではなく、時にはその時代を茶化し、ニヤニヤ笑い、しかし、小さなもの、弱いものに常に目をむける、そんなアウトロー的方法のひとつが、俳句に最も適したものではないかと思う。

新興俳句や社会性俳句の時代もあった。それはそれで意味合いもあったろうが、もっと俳諧というもののひとつの特性を生かした反骨が表現できないものか。

わが愛誦のアウトロー句。

 なでしこや畑さまたげとぢゝがいふ  一 茶
 大寒や転びて諸手つく悲さ      三 鬼
 けふはおわかれの糸瓜がぶらり    山頭火
 咳をしてもひとり          放 哉
 シャツ雑草にぶっかけておく     一石路
 骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ     兜 太
 水鳥やむかうの岸へつういつうい   惟 然
 立ちそこね帰り忘れて行乙鳥     井 月
 頭の中で白い夏野となつてゐる    窓 秋
 戦争が廊下の奥に立つてゐた     白 泉

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