2009-01-18

無頼の系譜 長谷川裕

無頼の系譜

長谷川 裕
『百句会報』124号・2008年9月より転載


仁さんの「アウトロー」の原稿を読んで、ふとつげ義春の「噂の武士」を思った。「噂の武士」は『ガロ』1965年8月号に発表された。私が15歳のときの作品だ。まだつげ義春ブームが訪れる前である。

はじめて読んだのは『ガロ』だったか、翌1966年暮に発行されたホームラン文庫の単行本「噂の武士」だったか、いまでは記憶に定かではない。が、以後、二十代、三十代、四十代と、くり返し読み直す中で、私なりの評価が固まっていった、私にとってはきわめて重要な作品である。

つげ義春というと、「李さん一家」や「ねじ式」以後のスタイルを評価する向きが多いが、私はそれ以前の「チーコ」や「不思議な手紙」などの作品が見逃せない。そのなかでも「沼」の一年前に描かれた「噂の武士」は劇画の思想、いや、少々大袈裟に言ってしまうと、私なりに考える戦後思想(政治思想とか哲学思想といったたいそうなものではない。大根一山売って米を買うのにしたって思想があるのであり、その意味で思想に高低はないということである)の根底に触れる部分があり、拘泥せざるを得ないのだ。

こんな話である。

異形の武士が山中のひなびた温泉宿に現れる。ひとり逗留し、仏像を彫るかと思えば、剣技の鍛錬をおこなう。当人はけっして名乗ろうとはしないが、主人公の見るところ、そのスキのない所作、鋭い眼光から明らかに宮本武蔵と思われる。武蔵が現れたとの噂が噂を呼び、武蔵の姿を一目見ようと見物人が集まりはじめ、淋しい温泉宿は満員となる。

武蔵とおぼしき武士は集まってきた見物人を意識したかのように剣技をひけらかし、主人公をひっぱりだし、模擬試合などを演じたりする。主人公はそんな武蔵の姿に幻滅するが、実はその男は宿屋の亭主が客寄せに呼んだニセ武蔵であった。すべては演技であったのだ。しかし、ニセ武蔵が見せたあの剣技はまちがいなくホンモノであったし、彫刻の技も一流であった。

亭主から約束の金を受け取り、宿を去っていくニセ武蔵を見送りつつ、主人公は「男の背中には、生活の厳しさがズシリとおおいかぶさっているように見えた」と慨嘆する。

「噂の武士」はつげが無頼について、生活について触れた作品である。ここでいう無頼とはいわゆる破落戸(ごろつき)ということではなく、権威、権力を頼らない、いや、頼れないありようということだ。

頼れるのはおのれの意志と技量、つまり実力だけである。その点、ニセ武蔵の実力は本物の武蔵に勝るとも劣らない。しかし、ニセ武蔵は宮仕えしていない、つまり飼われていないので暮らしが苦しい。生活のためには見世物まがいのことをしなければならない。

できることなら宮仕えしたいところだが、そもそも宮仕えする意志も資質もない。無頼とは既成の権威、権力に餌付けされえぬ資質のことなのだ。そうであるが故の見世物師ぐらしだ。

ここでつげの思想が重いのは、単なる根無し草としての無頼を描いているのではないことだ。飯を食っていかなければならぬ、生活していかなければならぬことの重みを、無頼と重ね合わせていることである。ニセ武蔵は好きで無頼を気取っているわけではないのだ。世のしがらみにとらわれぬ自由人などと言って射られぬ切実さがそこにはある。

ニセ武蔵は剣術屋あるいは見世物師という世間師であるが、俳諧師もこうした無頼のうちといえよう。本物の俳人とは、いやがおうでもそうなってしまった無頼的資質に他ならぬ。

無頼の系譜として俳人を見れば、世間師としての芭蕉、蕪村、一茶の流れはおおいに理解できる。一茶、蕪村はむろんのこと、芭蕉のありようにも「どうやって飯を食っていくのか」という切実な問題が大きく見えてくる。そうであるからこそ芭蕉の無頼性は筋金入りといえる。

その点、子規、虚子は無頼とは言えない。子規は無邪気に、虚子は大人の計算を持ってして大きなもの、権威あるものに頼っている。彼等はこの世に頼るところを見つけることのできた幸福な人たちである。したがって彼等は俳諧史、無頼史の本流には入らない。

あえて入るとすれば、むしろ井月、山頭火、放哉、三鬼となろう。しかし、この四人、生活についてはまったく放棄しており、世捨て人、厭世家として楽になってしまっている。

私が気にしているのは、生活の重さがズシリと肩にのしかかったニセ武蔵は、宿屋の亭主から受け取った金をどこへ持って行き、どう使うのかと言うことなのだ。「噂の武士」では具体的にどうとは描かれていないが、それが見えるような気がする。

まさしく仁さんの指摘するとおり、軽さ、薄さの中で遊弋するのが現代の俳句だが、こいつはそういつまでも続くようには思えない。思いもかけなかったところで、無頼とは何か、生活とは何かをつきつめて考えなければ、リアリティを獲得できぬ状況がゆっくりと迫りつつあるのではなかろうか。

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