2009-02-15

成分表25 似顔絵 上田信治

成分表25 似顔絵

上田信治


初出:『里』2008年2月号



学生の頃、イベント会場や遊園地で、似顔絵描きのアルバイトをしていた。手の込んだ鉛筆デッサンふうのものではなく、サインペンや筆ペンを使って漫画ふうに、短時間で、お客が混んでいるときなどは、一枚5分ほどで描く。

誰にでも描ける似顔絵のコツは、顔のひとつひとつの部品の印象を、言葉に置き換えながら描くことだ。パッと眉を見て「太く/短い/困り/怒り眉」と思ったら、そう描く。「目が四角い」と思ったら、そう描く。部品の配置についても「横に広々としている」「棒状にまとまっている」等の言葉にして、そう描くようにする。禁物なのは、部品をよく見てそのとおりに描こうとすることで、それをやると、たちまち本来の下手くそが露わになって、絵にならない。

そんな機械的方法で、そうとう「そっくり」な顔が描ける。自分で描きながら不思議だったが、それができるのは、人が人の実際の顔を見分けるときにも、同じことが行なわれているかららしい。

人は視覚像を、全体丸のままとして受け取るのではなく、いくつかのパート分けされた形状・質感(げじ眉/ツル肌/四角目/幅広/小丸口etc.)の集積として、認知するのだそうだ。

その仕組みは心よりも早く働くので、意識することができない。

似顔絵の描き手は「方法」によって認知の仕組みにアクセスしているだけで、あらかじめ目指すところが分かって描いているわけではない。だから、描いている絵が、だんだんその人に似てくることを、だれより似顔絵描き本人が、驚き楽しむことができる。

  春雨やみなまたたける水たまり  木下夕爾

俳句の「写生」が、雨の雨らしさを言葉にできているとしたら、それは認識(あるいは想起)を、端から言葉にしていくことで、人間が「どういう」「何を」雨らしいと認識するかを、「結果として」見つけ得ているからだ。それは、ある人の眉毛が「引っ張り上げたよう」であることを言葉で見つけて、「そう」描くことと、よく似ている。

掲句の作者は写生派ではなく、ムードにはめたような作も多いのだが、この句の「雨らしさ」「春らしさ」は、彼を、多少は驚かせ、また楽しませたのではないかと思う。

似顔絵のことから、もう一つ連想されるのは、「取合せ」の働きについてである。

   小鰭鮨雨のなかなる東山   田中裕明

取合せについては、遠い近い、分る分らない、ということが言われる。しかしつまるところ、取合せによってもたらされるのは、福笑いにも似た、見慣れぬ一つの「顔」なのだ。

人の認知の仕組みの中で、小鰭鮨と雨と東山のイメージが、同時に入力され、立ち上がるとき、そこに現われるひとつの「顔」、それこそが一句の内容であって、それ以外ではない。

われわれが「それ」を十全に感じていても、名指すことができないのは、人が顔の見分けの仕組みを意識できず、ただ「その顔」としか思えないのと、同じことだ。

小鰭の皮に浮かぶ模様が、どこか「絵の雨」を連想させるとしても、である。

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