2009-02-01

川崎展宏先生の思い出 平高淳

川崎展宏先生の思い出

平高 淳


中学二年の国語の宿題で作った俳句が褒められて、落ちこぼれて傷ついていた自尊心が癒された。それで初めて自分で買った本が中村草田男の『新しい俳句の作り方』(角川文庫)。高校一年の頃、頴原退蔵の『芭蕉読本』(岩波文庫)で知った式目を無理強いして級友に教えこみ、授業中に数人で歌仙を巻いていた。友人の俳号は「大納言」やら「中将」。一浪してやっと大学の文学部に進んでも、私の生活の知的部分は俳句を作ることを中心に回っていたような感じだ。文学部に入ったらかえって文学とは何かが分からなくなり、とにかく興味のあることの近くをうろうろしていた。

大学二年の時に原子朗先生の担当で「日本文学特論」の単位を取ったが、同じ科目の三年時の講師が川崎展宏先生だった。今からちょうど三十年前のことである。キャンパス奥の当時消防署から警告を受けているといわれていた木造校舎の教室に、私は毎週真っ先に行き最前列で講義を聴いていた。

一番記憶に残っているのは俳句のことではなく、「一つのことに集中できないのは悪いことではない。色々なことに興味をもてるという意味で良いことだ。」という話だ。子どもの頃から集中力がないと叱られ続けていた我が身には新鮮な救いの言葉だった。

ある時は、先生が前日鎌倉の寺で四Sのどなたかの法事に出席されたとおっしゃったので、その有名な俳人の物故を知った。またある時は、焼き鳥を詠んだ「汝(な)はたれ我は塩」という自作を披露されたのを聴いて、当時の俳句雑誌の巻頭写真にもよく出ていた新宿の「ぼるが」に出向き、下戸の身でなるほど大人は塩なんだなと思ったりした。この店は今でも私は時折訪れている。

私がずっと熱心にノートを取ったり質問をしたりしたので、講義が終わって声をかけられたことがある。「君はいつも私の講義を熱心に聴いてくれてるようだが、そのノートを貸してくれないかね?私は自分で思ったことをしゃべっているだけできちんとノートを作っていないもので。」先生の意外な申し出に私も打ち明けた。「実は僕は先生の講義に登録してないんです。」すると先生は「それは好都合だ。試験を作る材料が欲しいと思って借りるんだから。」とおっしゃって笑った。

それから穴八幡から少し上がった右側にあった多分「カロリー」という名の洋食屋でランチを御馳走になり、色々な話を聴かせていただいた。一線で活躍する俳人なのに先生は気さくな方で、掛け持ちで講師をされているお茶の水女子大よりこちらの待遇の方が良いと言われたのが印象に残っている。俳句に関するお話の記憶が無いのは申し訳ない。それからは先生との距離もぐっと近くなり、自分の俳句を添削していただいたこともあった。

四年の四月の末から二週間ほど、高校時代に歌仙を巻いた仲間の誘いで中国を旅した。あれは人民公社を見学しなくても許されるようになった頃のことだ。訪中団の団長が東大の中国哲学科の主任教授だったので、日本人で初めて孔子廟を見たりしたが、その有り難味も当時の私には分からなかった。見たものを俳句に詠んだりして、西安から川崎先生に絵葉書を送った。その返信を今でも私は先生の句集の間にはさんで持っている。その後、先生はノートを返して下さる時に、ご自分の句集「義仲」といくつかの詩集や歌集を一緒に送ってくださった。内容に関係ないのになぜ句集の題名が義仲かを尋ねたら、「私はね義仲って人が好きなんですよ。」とか。私に平家物語の味が分かるにはそれから何年もの歳月が必要だった。

先生はその後「朝日俳壇」の選者を務められたりしてお忙しくなり、私にとっても思い出の有名俳人になっていった。

この文章を書くのに記憶がはっきりしない所があったので、私は自分の若い頃の日記を久しぶりに紐解いた。実は俳句を始めた中学二年の頃から九年あまり、縦書きのB5版ノートで九十冊以上の俳句と文章の記録があるのだ。そこには私がすっかり忘れてしまった川崎先生の授業の感想なども何度か書かれていた。当然たくさんの覚えていないことも書かれていて興味深かったのだが、それを全部読み返すとかえって書くものがつまらなくなってしまう気がして、あえて今回は記録より記憶に従ってこの稿をしたためた。

1 comments:

きてん さんのコメント...

読みました。