2009-02-01

俳句的趣味~ギブズの自由エネルギーと俳句データベース 生駒大祐

俳句的趣味 ~ギブズの自由エネルギーと俳句データベース

生駒大祐


趣味は俳句と胸を張って言えるか、と佐藤文香氏に問われた。
この問いを意訳すれば
・世間における俳句に対する状況、及びそれと自身の俳句との乖離について述べよ
といったところであろう。

私の狭い世間は大別すると
・教養学部基礎科学科界隈(理系界隈)
・俳句実作者界隈(俳句界隈)
の二つに分かれ、両者の大部分が20歳前後の大学生である。

まず理系界隈に関して言えば、俳句は割合良質な趣味であると言える。
ここで良質とは
・独自性がある(深い説明を抜きにして個性を出せる)
・反社会的でない(悪印象を恐れずに公言できる)
の二点を意味する。
他に俳句をやっている人間が場に居る確率は統計的に無視できる程度であり、
「ここで一句」とお調子者に言われる弊害を除けば、
周辺の人々に趣味が俳句とバレても特に問題は生じ得ない
しかし、だからといって趣味が俳句であると理系大学生の前で胸を張って言えるかといえば、必ずしもそうではない。

俳句1月号の新春座談会で「俳句を文化にしてはいけない。能やお茶と一緒にしてはダメだ」
という意見が出ているが(注1)、私の周辺の世間における俳句への認識に対する実感としては、
俳句はやはり茶道や華道と同様の伝統文化のカテゴリに入っているようである(注2・3)

私の俳句に対する認識は『「的確で新しい表現」、
抽象的に言えば「低エネルギー状態にある(注4)表現」を模索する営み』であるため、
そこには周囲の非俳句的ヒトビトとの認識の乖離がある。
この乖離がある限り、私は理系界隈において常に小さな声で俳句について語らざるを得ない。

俳句界隈ではどうだろうか。
彼らと話していて理系界隈で感じたような乖離を感じる機会は少ない。
私の周囲の俳句関係者には結社に属していない人間が多い。
そのためか、私も結社に所属していない人間であるため、
結社に所属していないという理由で俳句に対して真摯でないと判断する人間は少ないと感じており、その意味での居心地の悪さは感じていない(注5)

しかし、やはり自分は胸を張って自分の趣味が俳句であると言うことはできない。
それは俳句の「勉強」の問題である。
別段結社に所属している人間ばかりが俳句を勉強しているとは感じていない。
むしろ結社に属していない人間の方が自身の俳句の有り方を確立するために俳句を広く吸収しようと努力している印象すら受ける。
一方で、それらの同輩に比べて俳句の勉強を怠っている私がおり(注6)
それに対する引け目が私に俳句を趣味だと言わせないのである。

俳句内外の認識の乖離と自己の怠慢という外・内的要因によって、
私は佐藤文香の質問に否と返答する。
私・俳句両面の改革によってその返答が応となる未来を夢見て稿を終わる。



(注1)
角川俳句1月号『新春座談会俳句の未来予想図』
「高山 「俳句を文化にしてはいけない」ということ、僕もこれは賛成です。
対馬 「俳句を文化にしてはいけない」とは、どういうことですか。
高山 あくまで表現だということです。
神野 能やお茶と一緒にしてはダメだということです。」

(注2)
これは座談会で述べられているような、俳句における絶対的な型の存在論を私の周囲の人々が信じているか否かということを意味してはいない。もっと「大雑把な」認識においての話である。例えば、世間話的に私の趣味の近況について触れるとき、それを正確に覚えていない人は多い。
「なにか文学やってたよね。短歌だった?」ならまだ良い方で、「お茶のサークルだっけ」と言われることすらある。

(注3)
少し古い論文になるが、貞光 威(1997).高等学校教科書「国語I」・「国語II」における近・現代俳句教材 聖徳学園岐阜教育大学紀要Vol.33(19970228)pp.263-298 を読むと、
高校での俳句教育は有季定型の古典俳句を主に取り上げる形から無季・自由律の句や戦後の句まで広く取り上げる形へと変化していることが分かる
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000187667/)。
にも拘らず一部の俳句への認識が芭蕉(もしくは『友蔵心の俳句』)で止まっているようにすら見えるのは不思議である。「誰も教科書など読んでいない」ということなのかもしれない。

(注4)
ここで言うエネルギーとはギブズ自由エネルギーのことであり、有機化合物の平衡反応において、各状態にある全物質の持つ結合エネルギーの総和とエントロピー項の和を言う。
物質の化学反応においては生成物・反応物両辺の自由エネルギー同士の差によって生成物と出発物質の濃度が決定される。例えば生成物が反応物より4kJ/molだけ安定である(エネルギーが低い)場合、生成物が平衡条件下で83.3%を占めることになる。
今回の例では、新旧の表現をそれぞれ生成物、反応物に例えており、安定な状態の表現の方が人口に膾炙して世に残ってゆくという比喩で用いている。
この比喩を利用すると、例えば一般に自由エネルギーの減少する反応は発熱反応(差分のエネルギーを熱として生じる反応)になるが、この熱を名句を見たときの高揚感に例える事もできるかもしれない。
型の意味、深い句・浅い句の問題なども議論できるのではと考えたが長くなるので省略する。

(注5)
勿論結社に所属している人がみなそのような判断をすると認識しているわけではない。

(注6)
俳句を勉強することには二つの利点がある。「型式の習得」(注7)と「類句の排除」(注8)である。しかし非勉強者としては、それらの問題は俳句の電子データベース(注9)の充実などによって解決されないかと期待している。
俳句の型構造や表現技法(注10)を統計的な観点などから分析できれば(注11)俳句の迷信の解体が起こると共に新たな俳句が生み出されるのではないかと感じている。

(注7)
岸本尚毅の『俳句の力学』からの孫引きですが、波多野爽波は「俳句とは身体で受け止め、瞬時にして反射的に、有季十七音という言葉の塊として一時にでてくるもの。/従ってこれを為し得るような体質づくりを目指して、恰もスポーツの練習を反復して行うように写生の修行をこれでもか、これでもかと思う迄にやって足腰の鍛錬を行い、よき俳句に恵まれ得るような体質づくりこそ目指すべき」(「再び『瞬時の詩』を」)と評しました。

(注8)
類句は排除されなければならない。
無知から来る類句は責められるべきではないが、
蒙昧から来る類句は大いに蔑まれるべきである。
新たな定理は発見者の名のみを冠すべきである。

(注9)
現在のところ私の知る限り俳句の電子データベースは、ネット上にあって無料で使用できるものとしては、「俳句情報探索」(http://yoshi5.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/)とその参考リンクにある幾つかのデータベース、
CD-ROMとして利用可能な物としては集英社の「古典俳文学大系 CD-ROM版」などがあるようだ。
俳句情報探索は古典から現代の俳句までが広く集められており、検索にも自由度がある一方データベースの規模としては未だ小さい。著作権の問題も気になる。
古典俳文学大系はデータベースの規模・検索の自由度共に充実しているものの、集められているのが古典俳諧のみに限られている。
近現代の俳句を網羅的に集め、なおかつ成分をタグ化したようなものがあれば面白い研究ができるのではないだろうか。

(注10)
岸本尚毅の『俳句の力学』には、「(筆者注:龍太の句に対して)ちなみに、「○○の中」と「○○のなか」の使い分けは、「○○」が藪や家などの有形物であれば字面が固い「中」とし、夢や声などの無形物であれば字面が柔らかい「なか」としています」というような記述がいくつも見られ感動した。
このような分析を統計学、情報学、言語学などを用いて厳密に分析するとどのような知見が得られるのだろうか。

(注11)
昔の論文になるが、藤沢 偉作(1958).情報理論に依る俳句の分析 統計科学研究Vol.2, No.2 (1958-04) pp. 27-31 などは俳句を要素分解して情報量を計算し、有季と無季の句のどちらが情報量が多いかの理論を提示するなどしており興味深かった。

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