2009-03-15

成分表26 学習 上田信治

成分表26 学習

上田信治


初出:『里』2007年12月号・改稿



人がものを考えるということの、かなりの部分が、○か×の判断である。

けっこう複雑なことを思考しているつもりの時でも、つきつめれば、ほとんど、あっちの水が甘いかこっちの水が甘いか、ということを考えている。

それは、空気の好きなバクテリアにも、敵から逃げる昆虫にも、共通する営みである。行くか、退くか。好きか、嫌いか。

とっさの難しい判断を強いられ、腕組みをして考えているとき、自分は、どっちの水が甘いか、いい湯加減か、などをぐるぐると考えつつ、要はそれらをひっくるめて、どっちのどういう判断基準がより好ましいのか、イイかんじがするか、ということを考えている。そして往々にして、バクテリアや昆虫のように、目の前のいやなことを遠ざけるだけの行動を、選択してしまう。

ミクロの好悪の束が判断を生み、習慣化した判断の束が人格となる。人格化した好悪は、バクテリアの嫌気性、好気性と同じように、その人にとっての「本能」として、オートマティックに働く。

「本能」が良しとするものは、その人にとってほとんど生理的にたいへんけっこうなものであり、それが×を出すものは、ほとんど条件反射として忌避の対象となる。俳句において、論争的に扱われることの多くは、そういう類のことなのではないか。

  甘草の芽のとびとびのひとならび  高野素十

テレビなどで鳥の巣立ちの映像を見ることがある。 それまで狭い巣の中が世界の全てであり、親から餌をもらうことしか知らなかったひな鳥が、ある日いきなり、飛ぶことを要求される。はじめての飛行に鳥を押し出す、あれが本能だ、と思う。

さっさと出ていく奴もいるが、ぐずぐずしてなかなか飛ばない奴もいる。 とかく心があったり、ものを考えたりということは、ぱっとしないキャラクターを育てるのだなあ、と思うのだが、それはともかく。何のレッスンもインストラクターもなく、いきなり空を飛ばせてしまうのだから、本能は問答無用である。

一方、人間の動物としての本能は、あまり仕事をしていないような気がする。入院して数日ベッドにいただけで、歩き方を思い出すのに苦労するのだから、 人にとって歩くことすら学習の成果なのだろう。むしろ、街を行く人たちがだいたい同じ歩き方をしていることに、もっと驚くべきなのかもしれない 。

ものを考えることと、ただ好き嫌いを言うことの間には、見かけほど大きな違いはない。

しかし、考えるということは、新しい考え、すなわちアイデアを生むことでもある。それは○か×かではない、人として、空を飛ぶことにも匹敵する、栄光ある営みである。

本能は、オートマチックに働いて、鳥に、その身を空中に投げ出すことを命じる。本能抜きで、一から空の飛び方を発明することはたいへんだ。もちろん、一から歩き方を発明することも。

しかし、それは人として、尊いことだ。

だから、人と違うオリジナルの歩き方をして、もうすっかりそういう生き物、というような人には、憧れてしまうのだ。

  据銃して空は空とは何か   阿部完市


0 コメント: