2009-03-08

〔阿部完市の一句〕中村安伸

〔阿部完市の一句〕 にもつは絵馬風の品川すぎている
中村安伸


掲句は句集『にもつは絵馬』(1974)に収められるとともに、そのタイトルともなった句である。実景として読もうとすれば、たとえば絵馬をたくさん積んだトラックが国道を過ぎてゆく、あるいは、東海道を徒歩の旅人が風呂敷に絵馬を包んでゆく、そのようなものとして受け取ることも可能である。

しかし、私はこの「絵馬」を必ずしも現実のものとは受け取っておらず、むしろ内面を直喩的にあらわしたものであると思っている。このように現実と幻想がない交ぜとなり、その境界が明確でないのが阿部完市の俳句の特徴のひとつである。ただし、空想は現実と乖離することなく、むしろ内面の現実を忠実に描くために選択された空想的表現と位置づけるべきなのだと思う。

「風の品川」については、新幹線や東海道線の車窓から、品川駅の、多くの線路が集まりちょっとした平原のようにひろがった空間を見ている感覚を想像する。それが私にとって最も実感のある「品川」でもあり、「風」が呼び起こす景でもあるのだろう。「すぎている」という表現は、上り列車ではなく、東京を遠ざかる下り列車にこそふさわしいだろう。私はこの句に、旅立ちの期待感のようなものを重ねて読む。「絵馬」に描かれている躍動する馬のイメージもその一助となっているだろう。一方で、もっと日常的な光景として受け取る人もいるだろう。それは「品川」という固有の地名に対して読者が抱くイメージが多様だからであり、そのことが句意の多義性をもたらすのである。

阿部完市の句には地名を用いたものが多くあるが、日本国内の地名の場合は、旧国名のようにイメージが比較的固定しているものより、県名など、読者それぞれが実感をもってイメージできるものを積極的に使っているように感じる。例をあげると〈栃木にいろいろ雨のたましいもいたり〉(『にもつは絵馬』)〈みえてきて滋賀県は波ばかりかな〉(『軽のやまめ』)などがあるが、もちろん、読者がどうこうというより、作者自身がその瞬間、実際に感じ取った印象を託すのに適当であるとして選択したものであろう。

やや話はそれるが、海外の地名を表記を使っている句も多く、目立つのはカタカナ表記を平仮名に置き換えて使用しているものである。これは固着したイメージを取り払い、あるいは童話的な印象を与えるためだろう。たとえば〈いたりやのふいれんつえ遠しとんぼつり〉(『阿部完市句集』より「その後の・集」)〈ねぱーるはとても祭で花むしろ〉(『軽のやまめ』)などがある。

表記ということに関して言えば、掲句の「にもつ」が平仮名にされていることは目をひくのだが、同じ句集におさめられた〈いもうとと飛んでいるなり青荷物〉という句の「荷物」が漢字で表記されていることと比較すると、ひとつには仮名と漢字の量的バランスをとったということであろう。「いもうとと」の句の「青荷物」については、造語としてイメージを明確にするため漢字を使っているという側面もあるだろう。

この二句に共通しているのは「にもつ」あるいは「荷物」を軽いものとして描いているところである。「にもつは絵馬」の句では「絵馬」という比較的軽いものを「にもつ」と称しているのだし、平仮名表記もかろやかな印象を与え「荷」という文字のもつ重苦しさを解き放ちもする。「いもうとと」の句に至っては飛行する「青荷物」なのである。

「荷物」という語はどうしても「人生の重荷」というような責任感、プレッシャーなどを象徴的に暗示してしまう。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」という徳川家康人生訓を引き合いに出すまでもないだろう。このようなイメージを払拭したい、あるいは自分自身にのしかかる重荷そのものを軽くとらえたいという思いが、両句にあらわれているように感じる。裏返すと、阿部完市自身が、このような重荷を敏感に感じてしまう人であったのかもしれない。

そのようなナイーブさが、痛々しいほど素朴に明確にあらわれてしまっているのが、第一句集『無帽』(1956)である。阿部氏の訃報を聞き、彼の句業を振り返ってみて、今まではあまり意識しなかったこの初期の句業を興味深く感じている。句集のタイトルが「無防備」に通じるというようなことも含めて、検討してみたいところである。

掲句は『にもつは絵馬』(1974)所収。

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