〔阿部完市の一句〕 少年来る無心に充分に刺すために
五十嵐秀彦
俳句を始めたころ、あこがれの作品というものがあった。
いや、あこがれの俳句があったから、自分でも作ってみようと思ったのかもしれない。
いくつか書き出すと次のような作品がそれだ。
目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹 寺山修司
「月光」旅館
開けても開けてもドアがある 高柳重信
夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣
南国に死して御恩のみなみかぜ 攝津幸彦
水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼
かもめ来よ天金の書をひらくたび 三橋敏雄
こうして見ると、実にパターンだなぁ、と思う。
とは思うが、この一句一句に「偶然」出会ったという事実が面白い。
初心のころも今も、特に研究したい作家でもなければ、個人句集にはそれほど興味を持っていない。
風の中に吹かれてきたものに偶然触れるような出会いのほうが、俳句らしいと思っている。
だから、基本的にアンソロジーが好きだ。
そしてアンソロジーの中から、「偶然」を装った風が吹きつけてきた。
阿部完市の掲句も、そんな出会いの句だったはずだ。
特に難解な句ではないが、ではどう解釈するかと問われると、答えにくい。
初心の頃に好きになった句の大半がそんな句だった。
今でも私は俳句の意味など、どうでもいいと思っている。
たぶんこれからもそうだろう。
よく分かる俳句を書くぐらいなら、なにも俳句でなくてもよいし、エッセイでも小説でも意味伝達を重視した形式を選べばよい。
阿部完市の句は、意味性を無視しているので、私にはとてもなじみやすかった。
それなりの年数を俳句に親しんでくると、やがて立派なスレッカラシになって、写生句を楽しく読んだり、それっぽい句を作ったりするのだが、大方の意見と異なり写生句にはあまり俳句を感じないのである。
やはりなにごと初心というものが肝心で、それが創作の原郷のようになる。
私にとって阿部完市の存在は、やすらぎでもあった。
ときどきふと心に浮ぶその言葉の響きを楽しんできた。
今後、阿部完市論など書く可能性はかけらもないが、好きな俳人、俳句であることはこれからも変わらないだろう。
有名な掲句も、有名であろうとなかろうと、私の背中を俳句に向って押してくれた恩ある一句である。
ほかに好きな句も多いが、一句挙げろと言われれば、この句を迷わず挙げる。
そこがふるさとだからである。
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2009-03-08
〔阿部完市の一句〕五十嵐秀彦
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