2009-03-08

〔阿部完市の一句〕関 悦史

〔阿部完市の一句〕 うすみどりの手足の大工の名 言え

関 悦史


『阿部完市俳句集成』を出鱈目に開いたらたまたまこの句が出てきたのでこれを読む。
手足だけがうすみどりになっている大工というこの奇怪な人物は宇宙生物であるわけではなく、また己が扱う木材・木との相互浸透の結果こうなったのでもなく、そういう由来や原因といったものが持ち込む物語性とは無縁にただ単にそういう存在であって、このうすみどりというのが絵の具のような不透明な厚みを持ったそれではなく、物質としてどれだけ確たる存在なのか怪しい、向こうが透けて見えるような半透明の頼りないうすみどりのようにも思われるのは、阿部完市を特徴づける色といえば何よりもまず、事象と情動との有機的連関を経たれ、非物質的な放散性を持ちながらも聖性とは何ら関わることのない解離としての「白」だからであって、この場合の「うすみどり」もそれにかなり近く、「人生が薔薇色」になったり「この世が真っ暗」に見えたりするならばともかく「人生がうすみどりになった」などと言われた場合どう応接してよいのか判断に苦しむことにもなって、そうした情調の定位や世界解釈・世界への意味づけといったベクトルをおよそ拒否したものと見え、このような頼りない存在感しか持たない四肢を持った大工が普通に直立できるようには到底思えず、この妙に希薄な手足を曖昧に空間にふやけさせたまま寝転んでいるのか、あるいは重力を無視してふわふわと移動できたりもするのかもしれないのだが、この奇妙な身体的特徴と職業名という属性のみによって提示された大工の名を言うという行為がいかなることであるのか、名を言い当てられたら死ぬ怪物というのもどこかにいたような気がするがそういう類とは見えないし、平安時代頃の習俗のように本名を知ることによって呪詛の対象にできたり、あるいは家族なり恋人なりといった関係を取り結べるといったことでもなさそうで、別にそんな関係にはなりたくもないのだが、「言え」という命令形によって否応なしにわれわれはこの句の中にに巻き込まれてしまい、小説を例にとればその多くは一人称かまたは三人称の安定性の中で語られるものなのだがあえて二人称や無人称を用いて特有の浮遊感を読み手に味わわせる作品もあり、前者ではビュトールの『心変わり』や多和田葉子の『アメリカ—非道の大陸』、後者では古井由吉の『山躁賦』、田久保英夫の『海図』といった実例があって、これらは皆私の偏愛するところなのだが、それらにも似た軽い酩酊感を来たしつつ、強いてこの大工の名を口にするならば、考えられる答えの一つは「これは大工ではない」という名であると思われ、というのはマグリットが例の名高い『これはパイプではない』というタブローにおいて、曖昧に宙に浮いたパイプ以外の何ものにも見えないイメージと同一の画面内に「これはパイプではない」という文字列を描き込んでしまい、云われてみればこれは確かに画餅ならぬ絵に描いたパイプなのだからパイプではないことには間違いはないのだが、イメージを提示することがそのまま「これはパイプである」という擬似自同律的な言説として機能してしまうことを改めて意識させながらも、その画面内にはやはりどう見てもパイプとしか見えぬものが描かれているという循環と似たような効果をイメージと文字との並列・役割分担においてではなく、言葉同士の組織の仕方だけで成就させているのが阿部完市の俳句だからで、具体的には木にのぼった程度のことであざやかに見えてしまう「アフリカ」とか、全天が窓になっている「さんくとぺてるぶるぐ」などといったものが「パイプ」にあたり、ありえない状況・関係に投げ込まれてしまうことでこの「アフリカ」や「さんくとぺてるぶるぐ」が現実の世界に指向対象を持つものではなくなってしまい、さらにその奇怪なありかたは何らかの真意や解釈といったものを裏に秘めた象徴や隠喩といった詩的権能からもかぎりなく遠ざけられているので、ここまでくると阿部完市の句の奇怪なイメージは、シュルレアリスティックなイメージを提示すること自体が目的というよりも、言葉から現実の指向対象や詩的意味作用をぞっくりと引き算することによって、言葉それ自体にひとつの現実と云えるような別種の強度を担わせることが本意なのではないかと思え、この巨大な引き算によって句は現実世界の持続性から身を離し、永遠性、それはこの場合不可視の言語体系たるラングとほぼ同義となるものなのかもしれないのだが、その誰にも到達できないがゆえに誰にとっても限りなく懐かしい永遠性への架橋を果たしてしまっており、幼いころの記憶などの中には、自分が本当に身をもって見聞きしたものなのか、それとも人から何度も話を聞きながら想像しているうちにそのイメージが固着し、“記憶”と成り果ててしまったものかしかとは定めがたいイメージの一つや二つは誰でも持っているものだろうが、阿部完市の句は通常の意味作用を脱落させることによってそうした領域にいかにも親密にそっと忍び入ってくるので、かくして今、阿部完市の句をめぐって如上の想念をめぐらせながら数十分の時を過ごすという経験を経た私にとり、「うすみどりの手足の大工」は懐かしさ以外の何ものでももはやない。

掲句は『春日朝歌』(1976)収録

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