復興とは何か 能登から神戸を訪ねて
市堀玉宗 (曹洞宗興禅寺住職、俳人)
北国新聞2009年2月19日より転載
能登半島地震に被災後、様々な出会いがあった。
阪神大震災の被災者でありボランティア活動を続けている人たちとのご縁もその一つである。彼らの招きで1月16、17日を神戸で過ごした。6434人が死亡した震災から14年目を迎えていた。町並みには一見被災の痕跡はなく、田舎者の私などには神戸市民の復興の逞しさを感じたものだった。
●
早朝、地震が起きた時刻、被災地の一角に建つ地蔵堂の前で神戸市の各宗派の若手僧侶たち共に読経。長田区公民館では区民と被災体験を語り合う集会に出席した。
地震発生直後より起きた火災は三日間燃え続け遺骨も拾えなかったこと、倒壊している家屋から救い出せないで目の前で火炎の犠牲になっていった人のこと、犠牲者の遺体の処置が凄惨を極めたこと等々。そして今も続く地域の互助やボランティア活動のこと…。
●
実は私にはかれらと出会った当初から感じていた疑問があった。それは、何が彼らをしてそのような無私なる活動を継続させているのだろうかということだ。
人間は矛盾に満ちた生きものである。だからこそ生きていられるといったほうが的を射ている。それは理屈ではない。災いに遭ったことを忘れたいという思いがある一方で、忘れたくないという思いもある。一人にして欲しかったり人の中にいたかったり。再生と鎮魂への遠い眼差しと立ち止まることへの恐れ。存在への抜き差しならない期待感、そして絶望感。「何という人間らしさであろう」。それが私の実感であった。
「支援や支え合うことをせずにはいられない」という彼らの言葉には、彼らが震災で受けたこころの傷、その深みからの生な響きがある。
●
真の自立とは孤立ではなかろう。己を生かすには同じほどの自然さで人を生かさなければならない。それは人間おのおのが抱えている、いのちの真相であり、主義主張以前の極めてあたりまえの話ではないか。支えられる方も支える方も共に救われなければならない。偽善だとか押しつけだとかいう批判、そんなことは取るに足らないことだ。
人を思いやるすべには様々なかたちがあっていい。真心というものは存在のはかなさに込められて通ずるほかはない。受け入れ難い人もいるかもしれないが、生きてある限り傷ついたこころを癒すのもまたこの常ならぬ地上をおいて余所にないのである。真心に共感するお互いの人間性が問われていることを忘れてはならない。
能登半島地震から来月で二年となる。復興とは何であるか? 被災によって失くしたものは確かにある。元に戻ることが復興であるか。しかし災難に遭うこともご縁なのだと強く実感したことも事実である。そして九死に一生を得た今生の縁に手を合わせていた私。
●
思えば人生において人災天災を問わず災害に遭わないで過ごすことの方が稀であろう。能登半島地震に被災して以来、私には寺の再建という新鮮で充実した日々があった。
生きるとは縁を生きることである。縁は本来的に選ぶことができない。だからこそそれは人生の宝なのである。その宝をどう活かすかが復興の本質ではないか。
生きてゆく泪鹹きも花のころ 玉宗
●
2007年3月25日午前9時41分、M6.9のきわめて強い地震が、能登半島をおそいました。建物倒壊の被害が集中したのが、輪島市門前町。市堀さんが住職を務める興禅寺は、山門とお地蔵様を残して、本堂と庫裡が全壊するという大きな被害を受けました。
以来、市堀さんは寺院再建のため托鉢を続け、石川県内外に多くの支援者を得るに至りました。この秋には、再建なった本堂の落慶法要が行われます。
現在、興禅寺では新しい地蔵堂建立のための資金のご寄付を募っています。
〒927-2156 輪島市門前町走出6-66-1 興禅寺 地蔵堂建立勧進
(編集部)
●
0 comments:
コメントを投稿