2009-03-08

〔阿部完市の一句〕堀本 吟

〔阿部完市の一句〕きのうきようまつかぜごつこはやるなり

堀本 吟


巧いと思うモノは沢山あった、やたら繰り返しが多く何もないのに饒舌であるのもかなりあった。意外にも自分にピッタリくるものが少ない。しかし、きらいではないのである。しだいにそのリズムに引きこまれてきた。そして、多くの句には風、水、なみ(波)、気配など、何もないというありかたで在るものが多いことにも気がついた。この人はそれを書きたかったのではないだろうか。いちばん無意味な世界がえがかれている(らしい)ものを、私は選んだ。

撥音拗音もおなじ大きさに文字、それもひらがなで書かれている。一音一音が、音符のようにながれている。句の中身はものの距離が大きく空間的でかつ透明。さらにそれらはひらがなのたわむれであることがおおい。この文字の流れの眺めに浮かんでくるのは、全て虚でありながら、風の音や動きを感じ取っている人のこころのながれかた。
この句に敢えて意味を問うならば、下のようなことになるだろう。
a 昨日今日松風ごっこ流行るなり  (評者無断書き換え)
b 昨日今日松風ごっこ逸るなり    (同)
c 昨日今日待つ風ごっこ流行るなり  (同)
d 昨日今日待つ風ごっこ逸るなり   (同)
e 昨日今日待つ風邪ごっこ流行るなり (同)
f 昨日今日待つ風邪ごっこ逸るなり  (同) 
「松風ごっこ」か「待つ風ごっこ」か「風ごっこ」か「風邪ごっこ」か、「逸る」か「流行る」か?けっきょく〈a〉 を常識のセンと考える。

でも、「松風ごっこ」とはなにか?それ自体の意味についての関心をそそるとともに、それはひらがな世界の「まつかぜごつこ」とはちがうのだろうか?という疑念もわいてくる。
例えば、〈快速はあわれなりけり蕎麦の花〉・・ 快速電車にのっている時窓外があっというまに移って行くあの快感とあっけなさを「あわれ」と言いとめる、めすらしく日常感が覗いているが、この感受性も「あわれ」のことばの範疇に生きている。「まつかぜごつこ」は、これと表裏一体である。音とその気配への感受性。実在そのものが消えかかっている時空のしかも時間の経過である。「まつかぜ」が病むことはないはずなのに。

また、「まつかぜごつこ」は、つぎのような句とともに、音符のようなひらがな表記やリフレインのおもしろさが堪能できる。

ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん『絵本の空』
木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど『にもつは絵馬』
たとえば一位の木のいちいとは風に揺られる『春日朝歌』     
きつねこころをまつさかさまにしてうらら  『同』
迷子ながれてこの江のなみとなりにけり 『軽のやまめ』
ほんとうにやまめかるくてかくれてくに 『同』

でてくる実体の重量が軽い。それは句が軽佻浮薄であることとはちがう、むしろ、虚の或いは気配というもののたしかな存在感に実在の纏麺をあつけてしまった。これらの句とともに、「まつかぜごつこ」は速度と音のあそぶすがたなのだ、ともいえる。

感覚が、現実をはなれてゆくことについて、当時の「前衛」俳人は危惧を感じたであろうが、言葉というものはつねに実感を裏切るもの。経験の隘路を抜けだそうとするのである。さて、私たちには向後、きのうきようではなく、みらいえいごうどんな経験とどんな無心な遊びが約束されているのだろうか?(2009年 3月 5日 )


掲句は『春日朝歌』(1978)収録『阿部完市句集』(平成15年。文學の森刊)には厳選三百句の内。

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