〔阿部完市の一句〕 少年来る無心に充分に刺すために
小田信太郎
そういえば、少年というのは本来そういうもんであるよなあ、なんて思う。1960年におこった社会党委員長浅沼稲次郎刺殺事件の刺客山口ニ矢(おとや)は当時十七歳だった。玉川学園高等部を中退し、赤尾敏の大日本愛国党に入党した「セブンティーン」は、日比谷公会堂の壇上で、たしかに無心に充分に刺した。
一ヶ月後に東京少年鑑別所で首をくくったときにも、七生報国 天皇陛下万歳 と壁に書いたくらいだから、念が入っている。
もし生きていれば、いま六十六歳であります。
いかなる理由があろうとテロは許されない、と言ってこれを難じることが、もっとも当たり障りのない態度であることはたしかだが、しかし、そんな言説は上っ面のキレイゴトにすぎない。
こんなインチキに対して、「少年来る無心に充分に刺すために」には、ああこれはホンモノだ、たしかにそうだ、という実感がある。むかしもそうだった。いまもそうである。これからだってそうにちがいない。阿部完市は、ここでたしかに人間の核心にふれたとわたしは思う。
この句からうける衝撃のなかには(すくなくともわたし自身は)これをうべなうこころがあり、そしてこの句が通り抜けたあとでは、少年に対する愛惜がわきあがる。誰もみな、少年はもう来ないのだと思っているかもしれない。しかし、少年はかならず来るのである。
その少年が、いとおしく、わたしはかなしい。この句がわたしを通過するたびにかなしいのであります。
掲句は『絵本の空』(1969)収録
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