〔俳誌を読む〕
『俳句界』2009年4月号を読む
さいばら天気
●特集・俳句は〝現代〟をどう詠んでいるのか? p29-
俳句が現代を詠むというとき、その「現代」がいったい何なのか。そこのところがなかなかに難しく手強い。大まかに捉えれば、特集冒頭の座談会で横澤放川氏の指摘するように「時事と呼ばれるものと、現代性というものの両面」があるのでしょうが、横澤は続けて、こうおっしゃいます。
現代性という点で言えば、中学生が俳句を作ったって、そういう傾向は当然出てくるのですから、この二つは分けておかなきゃならない。
それはそうなのですが、実際のところ現代の中学生からも前時代的な俳句がどんどん出てくる、その点にむしろテーマの片一方の核心が隠されている気もします。もってまわった言い方をするようですが、「現代」を、陳腐にではなく単純化するのでもなく詠むのは、そう簡単ではありません。
時事を詠んだ句の成功例って、あるんでしょうか? 社会性俳句は歴史用語ではあっても、今、社会を詠んだ俳句って?
社会性俳句だの、時事俳句だのと枠組みを作ったら作った分だけ、現代という概念が狭められていくと思うんです。(岩淵喜代子)
そのとおりだと思います。ただ、そこから先のこと、つまり「現代」という概念の広汎さ・複雑さをそのままに、俳句に詠むことの困難さには、どうしてもたじろいでしまいます。あるいは、アクチュアルに私たちが接している/包まれている「現代」という現実と、俳句が関わっていくことの困難さ。
戦争や貧困を取り上げれば、特集扉のリード文にあるように「現代のめまぐるしく大きな変化に」、俳句が「対峙」していることになるかといえば、そうではないでしょう。お年寄りに馴染みのない今風のモノやコトが句に入っているから、「ああ、現代だなあ」ということでもない(註1)。
一方、現代仮名遣いだから現代志向、旧仮名遣いだから伝統志向という図式が通用するはずもなく(だいたいが仮名遣いなどという矮小な選択が「現代」という巨大なテーマにいくばくかでも関連すると考えるセンスは、かなりおかしい)、また、「現代俳句」という呼称の、今となって纏ってしまった、どうしようもない古めかしさ。これは根が深いです。
ああ、悩ましい。この特集を読んでも、少なくとも私はほとんど何のヒントも得られませんでした。
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なお、特集中では、林桂「俳句は『現代』と向き合っているか」(p44-)が、新興俳句運動弾圧の際、弾圧を逃れる目的で俳人みずからと「現代」とを断ち切った経緯(高柳重信の指摘)と、ホトトギス的「近代俳句の幻影」の束縛とを、戦後俳句のいわばコインの両面と捉えたうえで、「季語」を鍵に、俳句と現代の関係に言及、根源的な問題提起となっています。
現代俳句(新興俳句)が「無季」の問題と対峙したのは、それが俳句の「現代」の問題として不可避だったからに他ならない。俳句が「現代」と向き合うには、俳句形式と向き合う覚悟から始めなければならないだろう。(林桂・前掲)
●佐高信の甘口でコンニチハ なかにし礼 p140-
通常はほとんどが無内容の対談記事ですが、今回は例外的に、ページをめくってみる価値アリ、かもしれません。
なかにし 歌を書こうとなったとき、最初に心に誓ったことは、「七五調では書くまい」ということだった。七五調にきれいに収まることで得られる日本人の精神の安定、美意識、行儀のよさ、収まることの粋な感じとか、そういうことから外れたところにある日本人の情緒、美しさ、共感が必ずあるはずだと思ったのです。
七五調によって、ことほいで、どんな火種も箱の中に収めて(…)という、この(…)鵺のような構図がね、「なんかアヤシイ」と直感させましたよね。
はい、たしかにアヤシイ。で、「唯一、好きな俳人は、種田山頭火」というオチには、あまりに予定どおりでちょっとガッカリですが。
(註1)いわゆる「新しい俳句」の特徴を素材に見出す「素材趣味」とも言うべき傾向がこのところ目立つが、ピントが外れていると思う。新しい風物を新しいボキャブラリーとして俳句に取り込むこと自体に、新しさはない。問題は「文体」である。「新しい文体」には新しさの価値があり、「現代」や「時代性」との重要な接点をもつものだが、新奇な事物を「古い文体」で詠むことに、新しさはない。
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