2009-04-19

成分表27 土俵 上田信治

成分表27 土俵

上田信治


初出:『里』2008年3月号



昔、日本の柔道家とプロレスラーが闘うという興業がアメリカであって、一ラウンドめはレスリングのスタイルで、二ラウンドめは柔道スタイル、つまり両者が柔道着を着て闘う、というルールだったそうだ。

子供のころ、漫画でそのことを読んで、相手に柔道着を着せないと闘えない柔道のことを、残念に思った。

勝負の相手に、頼んで、自分と同じ服を着てもらうということは、すでに半分負けを認めたようなものではないか。たとえ勝っても、間違いなく「あのヘンな服さえ着なければ負けなかった」と言われるだろう。

しかしよく考えてみると、プロレスラーのパンツ一丁のほうが、よほど人間のスタンダードな状態から外れている。

その柔道家は、一ラウンドめはパンツ一丁で、二ラウンドめは私服で、というルールにすればよかったのではないかと、今は思っている。

柔道とレスリングの優劣を決めるためには、二つのものが載ることのできる「土俵」を作らなければならない。それは、柔道とレスリングのそれぞれの「強さ」を包摂する場、つまり比較のためのメタレベルを作るということで、この場合は、それぞれの条件で一ラウンドずつ闘ってみる、ということが、その「場」である。

あらゆる場面で、私たちは判断のために、選択肢の優劣を比較するための「土俵」を作る。

加えて、ある土俵の上ではこちらが勝ち、別の土俵の上ではあちらが勝つ、ということが起こるので、「土俵」どうしの優劣を決めるための「土俵」が仮構される必要が生じる。

そのことは「土俵のための土俵のための土俵のための……」という無限の後退を引き起こすので、要するに「自分はどうすれば満足なのか」という最終レベルの「土俵」も、また用意されなければならない、ということになる。

つまり考えるとは、メタレベルを上げたり下げたりしながら、どっちの水が甘いかをさぐるということだ。と、これは前回書いたのと同じこと。

そして、これも、前回と同じ話だが、考えるとは、すでにある選択肢以外の何かに、生まれてもらうことでもある。本当に新しい何かは、生まれると同時に、自分のための「土俵」を、つまりそれ自身を基準とする価値を作るだろう。

あるいは「土俵」どうしの闘いから、見たこともない「土俵」が立ちあがる。生まれたての土俵の上には、ピカピカの新しい何かが。

白桃を二つ一つのごとく置く  橋本鶏二

これはいい茸だしかも二つある
  鴇田智哉


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