2009-05-10

12俳句における一物仕立ての定義 その3

いつき組俳句部 俳句における一物仕立ての定義 (3回シリーズ)

その3 完結編(2008年9月号より)


結局私たちは

これを一物仕立ての俳句と

定義する

 


好評シリーズの第3弾。前回(7月号)でお伝えしたとおり、「一物仕立て(と読める)俳句の分類」に順い、『現代俳句最前線 上下巻』(北溟社 2003.4)に掲載された俳句全ての分類を行った。そしてついに、28名、各200句、計5600句全ての俳句の検証を終えた。
 誰もが認める一物仕立ての俳句とはどんな俳句か? 全俳句に於けるその割合は? 一物仕立ての俳句の全貌を明らかにするドキュメントの完結編。

   文・いつき組俳句部 部長 津田美音
           &いつき組俳句部

5600句
全てを分類


全ての俳句を「一物仕立ての俳句」と「取り合わせの俳句」とに分けた場合、「一物仕立ての俳句」として読める可能性のある俳句を集め分類したのが前回(7月号)まで。

そして、その「分類の定義」にしたがい、現代俳句5600句の検証を行うことにした。「一物仕立て」の可能性のある俳句を、パソコンに打ち込む作業が続いた。

分析・分類は論理的に行われた。「一物仕立ての俳句」といってもそのバリエーションは多彩であり、「取り合わせの俳句」との違いを説明できるよう根気よくていねいに分類は進んだ。

いよいよ
分類結果発表!


分類開始から約半年を経て、「一物仕立て(と読める)俳句の分類」が終了した。結果は以下の通り。

・全俳句(5600句)に於ける一物仕立て(と読める)俳句(分類0~5)の割合は17・1%。










「一物仕立ての俳句」として読める可能性のある俳句をできるだけカウントしたにもかかわらず、全体としては圧倒的に「取り合わせの俳句」が多いことが分かる。

・一物仕立ての中での分類割合
一物仕立て(と読める)俳句の分類項目及び一物仕立ての比率

0-1 純正一物(観察) 16.1%
0-2 純正一物 (時間を経ての観察) 5.0%
1 作者の存在 7.1%
2-1 背景の存在(天文) 1.7%
2-2 背景の存在(地理・場所) 4.5%
2-3 背景の存在(時間) 0.7%
2-4 背景の存在(第三者の存在) 4.3%
2-5 背景の存在 (季語に付随する情報の存在) 3.8%
3-1 作者の思考の存在(擬人) 2.9%
3-2 作者の思考の存在(見立て・比喩) 13.9%
3-3 作者の思考の存在(機知・理屈) 18.1%
3-4 作者の思考の存在(五感の感覚) 1.5%
3-5 作者の思考の存在(感情) 1.9%
4 複合的要素の存在 12.9%
5 複数の解釈の存在 5.7%

 純正一物仕立て(0ー1観察・0ー2時間を経ての観察)は全体の2割を占め、続いて作者の思考の存在(3ー3機知・理屈)が続き、(3ー2見立て・比喩)も14%と多い結果となった。


「一物仕立て」
「取り合わせ」の境界は?


 そんな中、前回取り上げた、

遠山に日の当りたる枯野かな 虚子

が再度議論の的に。

この句は「その1 問題提起編」の感想としてめろさんからも「この句は一物仕立てだと思いつづけていた。この結果がもし取り合わせと出るなら…」と最たる関心を寄せられていた句でもある。検証の結果この句は、「一物仕立て(と読める)俳句」の「背景の存在(2ー2地理・場所)」として決着した。枯野に対して遠山はつながった場所であり、遠山は枯野という季語の背景として一句に存在するという具合だ。

しかし、俳句部の新メンバー省三さんから異議があがる。省三さん曰く、「この句を山本健吉氏は『枯野』と『遠山』との『取り合わせ』として鑑賞している(*)」とのこと。*山本健吉著『新版現代俳句 上』(平成2年初版、角川選書)より。


誰もが認める
一物仕立ての俳句とは


前回作った分類は、「季語に付随する情報を整理し、一物仕立ての俳句として、どこまで許容できるか」という視点で定義した。したがって、この分類のどこまでを「一物仕立て」あるいは「取り合わせ」の俳句として認めるかが問題。

例えば、「1の『作者の存在』までは一物仕立ての俳句として認めるが、それ以降は取り合わせ」という人や「2の『背景の存在』まで」、あるいは、「0から5まで全て『一物仕立て』である」と考える人もいるだろう。

個々がそれぞれの視点で、どこに線を引くかを議論しても結論は出ない。逆に「誰もが認める一物仕立ての俳句とは?」という視点に立てば、結論は見えてくる。

・全俳句に於ける純正一物仕立て(観察・時間を経ての観察)の句の割合は3.6%。












まとめとして ……夏井いつき

「一物仕立ての俳句」の定義を明確にする。

この一点のみを目的として、私たちは研究を続けてきた。結果をもう一度要約すれば、以下の3点になる。

① 100人が100人迷いなく「一物仕立て」であると判断する【純正一物】の俳句は、全体の約3~4%。

② 100人が100人迷いなく「取り合わせ」だと判断する俳句は、全体の80数%。

③ 「一物仕立て」か「取り合わせ」か、100人が100人、独自の判断を下す可能性のある俳句が、全体の14%程度。
 
問題になるのは③の部分だ。これまで、ここが不明瞭なまま各論者が各様の考えを展開していたから、噛み合わない議論が重ねられてきたに違いない。

私たちは次のように「一物仕立ての俳句」を定義してみる。

 【季語自身が内蔵していると判断できる情報のみで成立している俳句】

水引の途中の花の咲きのぼる 六戈
だんだんと踊整ひつつありぬ 廣太郎
眼の端の笑つてをりぬ生身魂
雪のうへに雪降るありありと青し 美奈子
その上にまたその上に濤の花 慶子
   
咲きのぼる「水引の花」、次第に整う「踊」、眼の端で笑う「生身魂」、降り積んでいく「雪」の青さ、上に上にと重なり合う「濤の花」。これらの句は各々の季語の有する情報のみで作られている。つまり、①に分類される句である。

仮に「一物仕立ての俳句」を、【季語を詠み、季語を描写する句】と定義した場合を、「水引の花」の句を例にお借りして考えてみよう。

A 水引の途中の花に雨およぶ
B 水引の途中の花に夜の雨
C 水引の花を手折れる女かな
D 螺旋階段のごとくに咲いて水引草

これらは、確かに【季語を詠み、季語を描写した句】ではあるが、全て前述③に分類される。Aには、本来「水引の花」という季語が内蔵しているはずのない「雨」という天文情報が入り、Bにはさらに「夜」という時間情報が加わる。Cは「水引の花」を手折る「女」という第三者が出現し、Dは「螺旋階段」のように咲くという見立てが用いられている。

今回私たちは、この手の定義の曖昧さから生じる「一物仕立て(と読める)俳句」を分類し、はっきり「一物仕立ての俳句」であると選別できる最もクリアな線引きを試みただけである。

個人的見解としてだが、比喩・見立ての句は、「螺旋階段=水引草」という発想自体が、イコールではない「a」と「b」を結びつけるところから生まれるわけだから、これも「取り合わせ」に分類されてしかるべき。だとすれば、前述②のパーセンテージはさらに大きくなるはずだ。

最後に、言うまでもないことだが、「一物仕立ての俳句」において【純正一物】であるかどうかが作品の優劣を決定するものではない。それは、純和風の懐石料理であるか、和洋折衷の創作料理であるかというような違いであって、その料理の美味さとは全く関係がないのと同じである。

1 コメント:

みなと さんのコメント...

他の記事もあわせて、面白く読ませていただきました。「俳句における一物仕立ての定義」については、思ったよりも「一物仕立て」の句は少ないな、というのが私の実感です。
 結果の、
① 100人が100人迷いなく「一物仕 立て」であると判断する【純正一物】の俳 句は、全体の約3~4%。
② 100人が100人迷いなく「取り合 わせ」だと判断する俳句は、全体の80数%。
③ 「一物仕立て」か「取り合わせ」か、100人が100人、独自の判断を下す可能性のある俳句が、全体の14%程度。
より、少し別のことを考えましたので、書かせていただきます。
 上の結果は芭蕉(許六)が言うように、俳句(発句)は「畢竟取合物」である、つまり俳句としては「取り合わせ」が常態であることを示しているように思います。であるとすると、「一物仕立て」、とくに純正(?)「一物仕立て」は、俳句としては例外に属するということになります(雅と俗との対比を軸とした俳諧の歴史や、575の短さで詩情を実現するためのエコノミーの視点からもそう言えるかと思います)。
 ですから、問題、というか面白いところは、③に属する句ではなく、むしろ①の句が俳句として成り立ちうるのは何故か、という点ではないでしょうか? 「取り合わせ」の要素をまったく欠いた句が俳句たりうるゆえん、が問題となる気がいたします。
 かと言って、私に答えの持ち合せがあるわけではないのですが、
 甘草の芽のとびとびのひとならび  素十
 白藤やゆりやみしかばうすみどり  不器男
 牡丹散てうちかさなりぬ二三片   蕪村
と三句、①の句を記事から抜かせていただくと、それぞれに韻律的(コトバ的)要素が魅力であるように感じられます(不器男の句に関しては、白と緑の色の取り合わせではないかと言う気もいたしますが、これも「白藤」というコトバから来るものですね)。言葉のリズムと発見や感覚の面白さがぴたりとハマった快感かなあ・・・。
 じっくり考えてみたいと思います。