2009-05-10

13句集は俳句のエンターテイメント作品 キム・チャンヒ

句集は俳句のエンターテイメント作品

キム・チャンヒ



なぜ人は句集を作るのか

ここ10年間で国会図書館に登録された句集の数は約8600冊(国立国会図書館蔵書検索・申込システムより)。登録されていないものも含めると、年間1000冊は超える句集がこの世に生まれているのではないかと推測される。

では、なぜ人は句集という本を作るのか。

例えば、自分の作った俳句を世に知らしめるだけなら、インターネットを利用して、生涯に作った俳句全てを、無料で発表することができる。また、本という形式にとらわれないのであれば、家庭用のプリンタで打ち出すことも、思いの外たやすい。

しかし多くの人が、安くても数十万の費用をかけ、句集を出版する。そしてその多くが自費出版であり、それだけの費用をかけて作ったにも関わらず、大きな利益をあげた例はほとんど聞かない。つまり、人が句集を作るのは、句集によって収益を上げるためではなく、俳句という無形の作品を本という物質にするため。そして、自分の作品を世に問うためであると思われる。

句集という本にする価値

では、問うべき世とはなにか。それは、俳句仲間や親戚知人かもしれないし、自分の師と仰ぐ者かもしれない。しかし、それだけならインターネットの例に限らず、本として出版する必要はないかもしれない。句集という本は、作者の命が果てても存在し続ける、普遍的な物体。だからこそ、自分の生きた証に句集を編む人もいる。

本になった句集は、時間と空間を超え、作者のまだ見ぬ読者の手に届く可能性がある。そして、その句集によって何かを感じてくれるかもしれないし、その作者を評価してくれるかもしれない。そこに、高い費用をかけてでも、句集を作る価値があると思うのではないか。

句集は俳句をまとめただけのものか

だとすれば句集は、それを手にする全ての読者に向けて作られたものだと、考えて差し支えがないだろう。そんな読者の心を引きつけるために、句集を作るときは、収録する俳句だけでなく、装丁にまで気を配るのだ。

もちろん、俳句は一次元的な文字の羅列であり、本の装丁など考慮に入れず味わうべきだ、という主張もある。しかし、それならインターネット上に発表した句集も、A4の用紙に印刷した句集も、美しく装丁された本としての句集も、収録された句が同じなら感動も同じということになる。果たしてそうだろうか。

器によって表現は変わる

ご存じの通り、ほんの20年ほど前までは、音楽はレコードで配布されていた。レコードはLP(ロングプレイ)でも切れ目なく収録できる時間は20分~30分程度。それ以上長い時間を聴くには、レコード盤を裏返さなければならない。収録時間の長いCDが本格的に普及する1990年代までは、レコードは片面ずつで完結するように、曲の配置がされていた。したがって、そのころのアルバムをLPで聴くのとCDで聴くのとでは、同じ曲、同じ曲順でありながら、印象が異なる作品が多い。逆にCDを前提として作られたアルバムには、レコードでは収録できない構成になっている場合も多数ある。

また、本来音楽は、単に耳で聴くのみで評価するべきものかもしれないが、歌詞カードがついているか否かで、その曲に対する印象が変わる場合もある。さらに、アルバムのジャケットデザインによって、総合的に作品世界を味わうことも多々ある。

つまりLPやCDに限らず、音楽を入れる器が変われば、受ける印象も変わるし、それを使って表現する内容も変わるということ。そしてそれは、絵画やコミックでも言えることであり、絵本や詩集、もちろん俳句にも言えること。

俳句を本という器に入れること

俳句は一句一句は独立して成立する芸術。その点に関して、何ら異論はない。しかし、作者が表現目的を持って句集を編んだ場合、俳句の構成や装丁を含め、一つの本として味わうべきだと考える。そうして読者が味わってくれなければ、句集を本という体裁で俳句を発表する意味などないとも思う。

もちろん、世に出る句集の中には、表現として句集ばかりではなく、記録としての句集も沢山ある。そういう句集に対しては、同じ事を主張するつもりはない。

句集というエンターテイメント作品

仮にあなたは今、自分の句集を出そうとしているとしよう。また、その句集で表現したいことは、特定の人に対してではなく、多くの人に共感をしてもらいたいことであるとする。

ならばあなたは、自分の表現したいことがより多くの人に伝わるように、俳句を構成するだろうし、その俳句の世界がより人に伝わるように、俳句の書体や表紙・カバーのデザインを検討するだろう。

そんな、句集を出す人が当たり前にやっている行為が、実は沢山の人に自分の句集を楽しんでもらうための工夫であり、俳句におけるエンターテイメントの方法なのである。

つまり多くの句集は既に「俳句によるエンターテイメント作品」なのだ。

年間800を超える句集の内、どれほどが「俳句によるエンターテイメント」という視点で編まれているかは分からない。しかし、エンターテイメント性の高い句集が沢山生まれることで、沢山の俳句の読者を育み、俳句を愛する読者が増えることで、俳句の常識を変えるような芸術性の高い作品も支持されるようになる。

そんな広大な俳句の文化を育むことこそが、我々の目指している「100年俳句計画」なのである。

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