2009-05-10

14 天然の人 ―『涅槃図』句集評―神野紗希


天然の人 ―『涅槃図』句集評― 神野紗希






はじめに


白道さんの句集に出て来る人や動物たちは、ちょっと天然だと思う。天然というのは、本人は一生懸命、本気で物事に向かって行動しているのに、周りの目からはぬかりがあるように見えて、笑いを誘う。この場合、真面目であればあるほど、天然度は上がり、よりおかしさが感じられる。

1.動物の「天然」

朝げいこ鶉はいつも怒りけり
蟋蟀のくるくる回る瓶の底
ごきぶりの見つけられしを気の付かぬ
熊蜂のぶちあたりたる国旗なり

まずは動物から。一句目、剣道か柔道の朝げいこだろうか。往路の道辺に飼われているのか、稽古場の近くで飼う声が聞こえるのか、鶉がいつも何か怒っているように鳴いている。「いつも」怒っているのだから、怒ったところで原因は解決されないわけだが、それにも関わらず怒り続けている鶉は、何だかエネルギーの無駄遣いをしているようで、間抜けに見える。

朝げいこをしている「私」と、何か想像のつかない理由で怒っている「鶉」とは、関係がない。関係がないけれど、「私」も「鶉」も、それぞれの世界で、「朝げいこ」に「怒り」に、精一杯エネルギーを発している。鶉が何で怒っているのか分からないように、鶉からみれば、人間が朝げいこをしているのも、何でそんなことをしているのか分からないものかもしれない。鶉の声を聞きながら、「ああ、またあいつ怒っているな」と思う、朝げいこをする私は、きっと、ちょっと微笑んでいる。そんな距離のある共感関係が魅力だ。

二句目。捕まえた蟋蟀を入れるのに、「瓶」はちょっと不自然だ。おそらく、捨てられた空き瓶に迷い込んでしまった蟋蟀だろう。うっかり落ちた瓶の底で、何が起きたか分からない蟋蟀は、ただ、狭い円周を回り続けている。そんな蟋蟀の生きるか死ぬかの瀬戸際に「くるくる」というオノマトペは、ちょっと軽い。蟋蟀の一生懸命な様に対して、作者という他者の感じる「くるくる」の軽さに、おかしみが滲むようだ。

三句目。確かに、ごきぶりの、まるで身を低くしているように平べったく這い回る様は、人間に見つかって殺されないように気をつけているようだというところを、言い当てているところが面白い。この場合、台所の、まさに分かりやすいフローリングの上のあたりを、まっすぐ横切っているのだろう。頭隠して尻隠さずどころか、あられもなく見つかっているのに、気付かずに行動するごきぶりは、やはり間抜けなものとして描かれている。

四句目。風に靡く国旗に、ぶうんと飛ぶ熊蜂がぶつかってしまったという、一瞬を捕まえた句だ。気持ちよく飛んでいた熊蜂にとっては、国旗は予想外の障害物だっただろう。ちょっと考えたら、そこに障害物があることなど分かりそうなものなのに、電柱にごちんと頭をぶつけるように、国旗にぶつかってしまう熊蜂の「え、何で?」という驚きとたじろぎが、読み手の側に感じられて、おかしみを引き出してくれる。「国旗」という柔らかいものに対して「ぶちあた」るという硬いものに当たったときのような表現をすることで、熊蜂の飛翔のはやさが表現されてもいる。

2.人間の「天然」

 では、次に、人間の様子を見てみよう。こちらも、なかなか、天然である。

キャンプ行く前にテントを張つてみる
冬林檎挙げてタクシー止めてをり

眼鏡をはづしてのぞく和金かな

遠足のつないだままの手を挙げる

一句目。キャンプに行った先で上手にテントを立てられないといけないので、庭先かどこかで予行演習をしている様を詠んだ句だ。小さな庭いっぱいに、テントを張ろうとしている様子は、日常ではあり得ない状況で違和感があり、見られるとちょっと恥ずかしい。「みる」のあたりに含羞があることから、作者も恥ずかしいという自覚があるようだ。恥ずかしいと分かっていながら、こそこそと「テントを張ってみる」姿は、ちょっと間抜けで、しかし憎めないかわいらしさがある。本番で上手にたてられていればいいなあと、願ってしまうほどである。

二句目、タクシーを止めた手に、冬林檎が握られていたというのだ。会の帰り際に、誰かにひとつ貰ったのだろうか。それとも、屋台の市場でひとつ買ったのか(そうすると外国の風景のようだ)。林檎を手に握ったまま、その手を挙げてタクシーを拾おうとする人は、ちょっと天然みたいだ。手提げに入れる間もなかったのか、鞄が小さくて林檎が入らなかったのか。タクシーの運転手も、林檎を見て、一瞬どきっとしたことだろう。「てをり」は、タクシーを止めて乗り込むまでの時間のことを指すから、林檎に驚いているのは運転手だけではなく、これを見ている作者もなのだろう。「冬」の設定で、タクシーを止めるときの息の白さや、掌の中の林檎の冷たさが思われる。

三句目、よく見えないので、眼鏡をはずして、裸眼で和金の姿を見ようと、鉢か甕の中を覗き込んでいる。「眼鏡をはづ」して、人工物を通さずに対峙するというところに、和金との親和関係がみてとれる。ここで「私」と「和金」との関係は、非常にほのぼのとしているのだが、通りがかった人は、眼鏡をはずして鉢を覗き込んでいる「私」を見て、何をしているのだろうと不審に思う。夢中になっているさまは、これまた少し天然である。

四句目。遠足の子どもたちは、迷ったりはぐれたりしないように、手をつないで歩いていく。先生から「では、行きますよ。いいですか?」と問われて、「はーい!」と答える子どもたちが、その手をつないだまま、離さずに挙げているのも、子どもの天然ぶりが伺えてかわいらしい。わざとやっているわけではないのだ。
 こうした、真面目さの誘う笑いというものは、俳句において、俳諧性と呼ばれているものによく似ている。そういう意味では、白道さんの俳句は、俳句の王道を行くものだといえる。でも、白道さんの俳句の意図は、諧謔とか批評性にあるようには思えない。諧謔があるというには、作者の作為が少ない。やはり、「天然」なのである。「天然」という語には、間抜けさやおかしみのほかに、もう少し別の意味、「自然である」という意味も含まれるように思う。

3.「天然」、自然であること

鳴きながら向きを変へたる油蝉
蜘蛛の巣の右半分をやり直す
寒餅の包みの上のお布施かな
門松の水平保つ小石かな
人がゐた証みかんの皮がある

一句目の、じじじ……と言いながら、幹の肌で向きを変える油蝉。二句目の、崩された巣の右側をもう一度つくりにかかる蜘蛛。寒餅の上に置かれているお布施。門松がぐらぐらするので、底に噛ませてある小石。卓上に置かれている、食べたあとの蜜柑の皮。作者は、これらに手を加えることはない。傍観者であることを徹底している。ただ、そこに自然にあったものを、いじらずに詠む。そうして生まれた句には「天然」のおかしみだけではなく、おおらかさや明るさ、かわいらしさ、そして一抹のやるせなさが滲むようだ。それが白道さんの俳句の魅力だと思う。「人がゐた証」として、「みかんの皮」のようにあられもなく、そして親しく俳句がある、そんな気分になる。

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