2009-05-03

『俳句界』2009年5月号を読む 五十嵐秀彦

〔俳誌を読む〕
『俳句界』2009年5月号を読む

五十嵐秀彦


五十嵐秀彦

ちかごろ俳句総合誌が、ようやく現状への疑問や批判を軸にした企画をし始めているようだ。
いまさらとも思うが、基本的には歓迎すべきこととも思う。
特に『俳句界』は結社の時代の終焉を今日的テーマとしたいようで、今月号も「俳句結社は今後どこへゆくのか」という特集を組んでいる。
こういう「オイオイ」と思わず呟くようなテーマで、良いのである。
なぜなら、バカ言うんじゃないよという人たちが当然出て来るからだ。
そしてたいがい、バカ言うんじゃないと言う人たちの考えもそれぞれ違っていることになり、そこに初めて「つまらない」質問の裏にある本質的な問題があらわになる。
企画が素晴らしすぎると、話はそこで終ってしまって膨らまないこともある。
いまごろ結社のことなんかテーマにするなよ、と言ってはならない。


●特集「結社 ~俳句結社は今後どこへゆくのか~」p.29-

まず総論の二篇を読む。
橋本喜夫は「結社の時代の終焉~超結社の時代へ~」で、秋山巳之流の平成2年と平成15年の二つの発言を取り上げている。
前者は『俳句』誌上での「結社の時代」の提言であり、後者は『俳句界』誌上での「超結社の時代」の提言である。

《この超結社という、奇妙な時代の落とし子から、本物が一人でも育てば実にめでたいのである。そうすれば選句がゆるみっぱなしで、停滞した伝統のある既製の結社に対しても、超結社という句会は、ある種のカンフル剤になる》

これは橋本が引用した平成15年の秋山の一文だ。
そして「週刊俳句」や「豈 Weekly」などの存在もまたネット上の超結社的動きであると評価し、《超結社の時代というのは、「結社を超えて学ぶ時代」であり、裏を返せば、「なだらかに続く結社の時代」でもあるのだ》と橋本はまとめている。
超結社の時代となっても基本的に結社の存在意義を認める立場からの発言であろう。

対して仁平勝は「「師」と「弟子」のゆくえ」で、この企画の問いかけそのものに疑問を呈する。
結社に優先するものとしての「座」の重要性を述べ、その「座」がすぐれた読み手を求めるところに師弟関係が生まれてきたと考え、その師弟関係の喪失が結社の衰退となっていると論じている。
仁平は現在の結社の傾向を、《結社の主宰が俳句を教えるようになり、会員たちが俳句を教わるようになった》ととらえる。

乱暴に言えば、橋本は結社の内側から、仁平は結社の外側から、現在を見て論じていると言えるのかもしれない。

他に論考として4氏が書いている。
豊田都峰は、俳人が読者と選者を求める限り結社は必要であるという視点から、《俳句がある限り結社は存続する》と断言する。
豊長みのるは、《結社はすべからく理念を蔵した師との真剣勝負》とし、結社がサロンであってはならないと述べる。
吉田汀史は、「週刊俳句」を例に挙げ、《今ある結社の古い体質とは異質の、こうした新しい動きが、将来の俳句に新しい世界を拓いてゆくのではないか》《ここ十年、少なくとも二十年で結社の様相が大きく変わるだろう》《全てなるようになる。それでいいのだ》と、やや諦観の滲む論調。
白濱一羊は、《まずは主宰と自分との一対一の関わりをどう成立させるかが重要なのである。主宰が作者として信頼でき、また主宰も真剣に自分と向き合ってくれているという実感があれば、結社の様態がどうであろうと構わないのである》とし、師弟関係が基本との見方をとる。

総論二篇、論考四編を読み、そこから浮かび上がってくるのは、師弟関係という軸が結社を支えているということだろう。
私もまた、橋本喜夫の意見のように、超結社を評価する「結社人」である。そして師を抜きにしては自分を語れない存在であることに、今回の企画で気付かされた。
その上で結社という組織を考えたとき、そこにあるサロン的な顔、カルチャースクール的顔を、あえて見ぬようにしてきた自分にも思い当たる。
はたして今あるような結社がこれからも存在し続ける意味はあるのだろうか。
「座」という水平軸から同人集団的ありかたへと行くのか、「師弟」という垂直軸を残し結社は解体するのか。
正直言うと、淘汰しかあり得ないのだから、無くなる結社はどんどん無くなればよいのだ。
結社が無くなったら俳句が作れないと思う人たちは、俳句の世界から退場してくれていいと思う。
その淘汰の嵐のあとに残った俳人と結社の顔ぶれを見たいものだ。


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