2009-07-05

『俳句』2009年7月号を読む 五十嵐秀彦

〔俳誌を読む〕
『俳句』2009年7月号を読む

五十嵐秀彦


大特集 団塊の世代が俳句を変える p63-

うひゃぁ、また世代論か、と思うなと言われても思ってしまう。
ただ、そうは言いつつも、俳句の世界で団塊の世代はどんな役割を果たしているのか、果たしつつあるのか、それとも何もしていないのか、最も気になる世代であるのは確かだ。
少なくとも私は興味がある。
というのも私は昭和31年生まれで、この世代の背中を追いかけてきたという実感があり、幻想なのかもしれないが、なにかしらの憧れと期待感を団塊の世代の人々に持ち続けてきたからだ。

橋本榮治の総論「転換期の群像」は、一月号の座談会「俳句の未来予想図」について、そこに参加していた一人として再び自身の考えを述べている。あの座談会はかなり重要な問いかけをしていたと私も思っているので、興味をもって読んだ。
その座談会で結社のあり方に疑問を呈した高山、神野の世代が中心になるころには俳壇がなし崩しに変化しているかもしれないと橋本は言う。
この稿を読んでいて、団塊の世代というのは、ひょっとしたら自己懐疑的な世代なのかなと感じるものがあった。
橋本はこう懸念を述べる。

若い人たちは選択肢の多様化を求めているのだが、それにこの世代は応えられるかということだ。かつて大学紛争の結果、多様化の道を閉ざされ、各人が自己へ関心を向けざるを得ない道を選んだ(ある者は選ばされた)世代だからである。座談会で「団塊の世代について一言、言っておきますと、みんな結構、個人主義ですよ」との拙言はそのことを含んでいる

橋本の総論に続いて、団塊の世代に属する作家達の自選句とエッセイ、そしてこの世代の俳誌編集長へのアンケート結果がずらりと並べられているのだが、それを一通り読んで、私が冒頭に述べた「団塊の世代への憧れ」は、やはり幻想に過ぎないのだということに気づかされる思いであった。

そこには、青年時代にこの国をひっくり返しかけた世代としての矜持も熱気のかけらも無かった。
平凡な(と言っては失礼か)、初老の表現者の感慨が並んでいるだけのように見えたのだ。
はたしてこの特集を読んで、皆さんがどう思われたのか、それを聞きたいものである。


追悼特集 阿部完市の生涯と仕事 p133-

団塊の世代特集を覆っていた迷いや不自由感の暗雲が、この安部完市の特集を読むと一掃されてしまったのはなぜだろう。
同時に、「ああオレはずいぶんと不自由な句を作っているのだなぁ・・・」と嘆息も漏れるのではあったが。

宇多喜代子は「安部完市の居る部屋」で、彼のことを《他の俳人とはけっして紛れぬ色をもって意中に礎石を据えた一人の作家》と表現した。
前の特集のことをひきずるようだが、これこそ団塊世代以降の不在感を際立たせる指摘となっているのではないか。

  ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん  阿部完市

俳句を始めたころは、阿部完市のような句を作らねば、そう思ったものだ。
だが、しばらくして、もっと日常的に花鳥風月が私の存在を侵し続けていることに目を向けたいと思うようになり、気づくとスタートラインで目指していたものと全く異なる作風になっている。
はたしてそれで良かったのか、わからぬ。
ただ、アベカンさんの作品には、私の初心の記憶が色濃くありつづけているのだ。そして、俳句実作において、初心ほど重く決定的なものはない。
すでに、阿部完市の俳句を真似ても意味のないところに現代俳句が至っているのだとしたなら、この特集に掲載された五十句を今の自分の中にどう反映させていくのか、読む者に迫ってくる問いがそこにあるようだ。


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