成分表30 つっこみ
上田信治
初出:『里』2008年6月号
いつごろからの流行だったか、演芸用語でいう「つっこみ」の台詞に、「何がやりたいんだ、お前は」というのがある。
どう使われるかというと、たとえば、いっしゅんの見せ場を与えられた新人が、がんばりすぎて素っ頓狂に空回りしてしまった時。場を主宰する先輩が「何がやりたいんだ、お前は」と飽れ笑いをふくんだ声を発すれば、新人の空回りが笑いに転化する。
「何がやりたいんだ、お前は」は、笑いという作品の失敗を、作者の意図を問うことで「作者プラス失敗作」という、もうひとつの作品に転換する。
その「つっこみ」は、あまりにしばしば、空回りを救済するために使われたので、ついに観客に刷り込まれてしまったらしく、今日では、演者による「意図された空回り」が、ごくふつうに作品として提示されるようになった。
「スベリ芸」とも呼ばれるそれを見て、観客は「何がやりたいんだ、お前は」と、言語化未満のスピードでつっこみ、笑う。
梅雨傘をさげて丸ビル通り抜け 高浜虚子
こういう句に対しては(大虚子を「お前」呼ばわりするつもりは毛頭ないが)「何がやりたいんだ」と力いっぱいつっこまずにいられないし、舞台を左から右へただ通りすぎるこの人を、さすが名優というべきか「出落ち」というべきか分からない。
もちろん「意図された空回り」は、いずれ不純なものとして斥けられなければならないだろう。
「作者プラス失敗作」を作品として受け入れるためには、まず作者の意図が純良であること、そして、それと矛盾するようだが、作者によって意図されたものが究極的には計り知れないことが、同時に必要だからだ。
「何がやりたいんだ」という「つっこみ」は、その意図を未生の美として、未生のままに救おうとする。
いなりずし湖に秋たちにけり 川崎展宏
失敗作呼ばわりするつもりは毛頭ないが、やはり心から「何がやりたいんだ」と、つっこみたくなる。つっこんでみて、ようやく何かが見えてくる。
ここでは、微妙にひとつの視野に収まらない「いなりずし」と「湖」、それをともに現実の風景として読んでいいものかどうか、そのことを「問いつつ読む」ことが、読者に期待されていると思われるからだ。
つまり「つっこみ」の引き受け先として、作者名を必要とする句があるということである。
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