〔週俳6月の俳句を読む〕
津川絵理子
見えないものがそこに確かに
人生は長からねども潮干狩 岸本尚毅
潮干狩に行ったのは随分昔のことだ。子供だから最初こそはしゃぎながら干潟を掻いているのだが、しだいに口数も減ってきて集中しはじめる。晩春の強い日差しに、頭がぼーっとしたりして。黙々と貝を拾いながら、あの時何を考えていたのだろう(考えていたのだろうか)。
潮干狩に「人生は長からねども」なんて、おかしくてもの哀しい。子供を連れてきたお父さんが、日差しに頭がぼーっとなりながらこんなことを思っているとしたら。楽しいだけの子供の潮干狩とは違って、大人の感覚がそこにはある。人生は短いと言い切るでなく、「長からねども」のおおらかで「溜めた」言い方が、いかにも晩春の行楽の感じを出している。
真珠貝深く吊るして夏の月 堺谷真人
最初、静かな絵みたいな句と思った。水面から下には真珠貝上には夏の月、という対象性がそう思わせるのかもしれない。しかし、夏の月は見えるけれど、深く吊るされた真珠貝は実際には見えない。ただそこにある、ということがわかっているだけだ。見えないものがそこに確かにある、という感覚がこの句を絵以上のものにしていると思う。
夏の夜のストロボ乳房感応す 河野けいこ
ストロボというと、昔の「シュボッ!」と大きな音がするのが無性に恐かった。この句は、どこで光ったとか、どんな状況だったとか何も述べていない。夏の闇の中からストロボが光ったのは、これが最初で最後、たった一回だったのかもしれない。急に光って驚いたのか、あらかじめ光るのが分かっていて、それでも光った瞬間驚いたのか。それらを読み手に委ねて、「乳房感応す」だけ打ち出した。感応す、と割とソフトな言い方にしているが、閃光が胸に当たったときの感覚(きっと脳の作用なんだろうけれど)には実感がある。
赤ん坊は母音で答ふ金魚玉 河野けいこ
金魚玉は、句の内容によって明るくも暗くも、楽しそうにも哀しげにも見えてくる。この句の場合は明るくカラフルな金魚玉だ。言葉をまだ話せない赤ん坊が、「あー」とか言っているのだろう。それも呼びかけにちゃんと答えているという情景だから、金魚玉も明るく感じられるのだが、それに加えて「ぼおん」の音の丸さ・柔らかさが、金魚玉の丸さ、赤ん坊の柔らかさに通じ、句全体に自然な流れを作っている。
蟻地獄大音響の砂の中 齋藤朝比古
大音響と言うとすぐ「蝶墜ちて大音響の結氷期」を思い出してしまうが、それを踏まえての作者の挑戦句と思った。蟻地獄を外から眺めている限りでは、大抵何も起こらず静かなので、その静けさについつい注目してしまう。しかし蟻地獄の側から見てみれば(難しいけれど)、中では絶えず砂が流れているかも知れず、その流砂の音がとてつもなく大きく聞えるのかもしれない。蟻地獄自身が大音響地獄に居るという、その地獄の中でじっと獲物を待っているという不気味さを感じたのだった。
■岸本尚毅 夏暑く冬寒き町 10句 ≫読む
■堺谷真人 1Q83・志摩 10句 ≫読む
■河野けいこ ランナー 10句 ≫読む
■齋藤朝比古 借り物 10句 ≫読む
●
2009-07-05
〔週俳6月の俳句を読む〕津川絵理子 見えないものがそこに確かに
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿