〔古誌を読む〕
ルイ14世のように
『俳句』昭和34(1959)年5月号 高浜虚子追悼号
猫髭
高浜虚子は、反ホトトギスを標榜し新興俳句に舞台を提供した改造社の「俳句研究」には作品を寄せなかったが、角川源義が創刊した総合雑誌「俳句」への寄稿は、最初は寄稿を謝絶したが、源義が虚子の父と同じワキ宝生流の謡を嗜むと知り、一転、その縁で挨拶句を寄せている。
親父が応援するのであればと年尾も作品を寄せたから、「俳句」と「ホトトギス」は歩を共にしたと言える。また、「俳句研究」も反ホトトギスの新興俳句を売り物にしていたから、総合的な権威を目指す「俳句」と、反権威(=反ホトトギス)の「俳句研究」は、商売としては扇の表裏のようなコンビだったとも言える。その要にいたのが大御所と目された虚子だった。
西東三鬼は「ホトトギス」をこきおろしていたが、新興俳句の水原秋桜子・吉岡禅寺洞・日野草城(昭和30年「ホトトギス」同人に回帰)・山口誓子という4人の指導者たちが「ホトトギス」出身であるからには、「私達も、つながる縁で、虚子の孫弟子に当る―この考え方にはへこたれた。参った。」と三鬼は述懐し、虚子をすべて読んで自分なりの虚子像を立てている。従うにせよ、叛くにせよ、虚子は俳壇の巨星であった。
巨星堕つ。昭和34年4月8日、脳幹部出血により虚子永眠。85歳。
翌月「俳句」5月号は「高浜虚子追悼号」を編む。印刷が4月25日で発行が5月1日だから、2週間で150ページの特別寄稿を得て編んだわけで、この早業は「俳句」なればこそ、虚子の死なればこそだろう。「俳句研究」が虚子の特集を組んだのは二ヵ月後の7月号であり、それも追悼号ではなく、「高浜虚子研究号」となっている。
わたくしは「俳句」を古本屋で求めたのだが、古本というのは天下の回り持ちなので、いろいろな付録が付いていて面白い。この号もまた、持主が律儀に虚子死亡時の新聞記事の切り抜きを原稿用紙表裏に四紙貼って栞としており、星野立子、山口青邨、山本健吉、久保田万太郎の言葉を伝えていて臨場感があった。特に万太郎は「ぼくは、俳句作家としてのこの人を、子規はもちろん、芭蕉、蕪村以上に高く評価するものである」(「ただひとりの巨匠」4月9日付読売新聞)とまで書いているのに驚く。
本号の追悼記事(註1)は、みな傾聴に値する内容だが、「古誌を読む」の趣旨が、その中の一つに限定という条件があるので、割愛。
では、何を取り上げるかというと、「虚子翁をしのぶ」という座談会(富安風生、山口青邨、楠本健吉)の一節「選は創作なり」を取り上げる。
「ホトトギス」創刊100年記念で『ホトトギス雑詠句評会抄』が平成7年に小学館から出版され、その巻頭で監修の稲畑汀子も、本書は「選もまた創作なり」と言った虚子の信念が実践されていると述べているが、この言葉の初出が鼎談の参加者にも曖昧になっているので、最初に付言すると、この言葉は、昭和6年5月から刊行された『ホトトギス雑詠全集第四巻夏の部上』(全12巻の第1回配本)の序に掲げられた。
選と云ふことは一つの創作であると思ふ。少くとも俳句の選と云ふことは一つの創作であると思ふ。此全集に載つた八萬三千の句は一面に於て私の創作であると考へて居るのである。正岡子規が古俳諧を季題別に分類した『分類俳句全集』に倣って、虚子は大正4年10月『ホトトギス雑詠集』を刊行したのを嚆矢として、生涯に亘って倦むことなく雑詠選集を出し続けた。明治41年10月から昭和23年3月まで五度に渡って、総冊数44巻の再選、精選を繰り返した。中でも昭和6年から刊行された『ホトトギス雑詠全集』(全12巻)と「ホトトギス」500号記念『新選ホトトギス雑詠全集』(全9巻)は圧巻である。袖珍版『ホトトギス雑詠選集』(朝日文庫、全4巻)は、昭和13年から18年の、京大俳句事件、三鬼検挙、新興俳句壊滅、太平洋戦争勃発の世上騒然たる中で編まれたものの再刊で、名著の誉れが高いが、長らく絶版となっている。波多野爽波は、この雑詠選集を更に十二ヶ月に分け、20句づつ精選し、弟子たちに暗誦するよう渡している。
おそらく虚子が生涯に選をした句数は、誇張ではなく百万句をくだるまい。虚子の絶句は、
独り句の推敲をして遅き日を 昭和35年3月30日
というものだから、最後まで選をしながら死んで行ったことになる。
虚子の選は、その分量だけでなく、その選によって名を成した鬼城、蛇笏、石鼎、普羅、秋桜子、素十、誓子、青畝、立子、久女、多佳女、たかし、風生、茅舎、夜半、不器男、草田男、汀女ら綺羅星の如き俳人たちの作品の素晴らしさゆえに、空前絶後と思われる。『虚子選ホトトギス雑詠選集』は、『芭蕉七部集』に匹敵する現代俳句の古典的名アンソロジーであると朝日文庫の裏表紙に謳われているが、あながち誇張とは思えない骨太の俳句が並ぶ。虚子もまた生涯に膨大な句を詠んだが、わたくしはこの『虚子選ホトトギス雑詠選集』と『虚子編新歳時記』こそが虚子が後世に残した最大の遺産であると考える。
それほど精魂を傾けた「選は創作なり」について、鼎談で富安風生と山口青邨がこういうことを述懐している。
富安 先生がね、どうも僕の記憶違いじやないと思うんだけれども、どの全集かが出されるときに、自分の選をした人の俳句をですね、これは創作なんだから、自分の全集へ入れても・・・・・・というような意見を洩らされたことがあったんです。それは選は創作だということをそこまで堅く信じておられましたね。しかし、全集に入れることは思い直されてやめましたがね。大学教授が助手の研究を自分名義で発表したり盗作したりする話題は珍しくはないが、実際にやれば、結果的には虚子も盗人猛々しいということになる逸話だが、さすがに、
山口 投句者としても、どれがいいかわからなくて、五句でも十句でも投稿する。その時に先生が玉を発見してやる。玉を発見することは自分のものだとお考えになれば、そこに「選は創作なり」と言えるかもしれませんね。当事者はただ素材を出すものだという・・・・・・。発見者がそれに生命を吹込んだということですね。そこが創作だといえば、いえるかもしれませんね。それはまあ乱暴だと思いますけれどもね。
楠本 ええ、かなり大胆な表現ですね・・・・・・
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋桜子
流氷や宗谷の門波荒れやまず 山口誓子
娘等のうかうかあそびソーダ水 星野立子
葛城の山懐に寝釈迦かな 阿波野青畝
朝顔の双葉のどこか濡れゐたる 高野素十
滝の上に水現はれて落ちにけり 後藤夜半
金魚大鱗夕焼の空の如くあり 松本たかし
祖母山も傾山も夕立かな 山口青邨
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
金剛の露ひとつぶや石の上 川端茅舎
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな 中村汀女
まさをなる空より枝垂桜かな 富安風生
あなたなる夜雨の葛のあなたかな 芝不器男
緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的 竹下しづの女
これらの句(『ホトトギス雑詠句会抄』より)を自分の作品として全集に入れるには、自分には詠めない句だなと我に帰ったのだろう。
とはいえ、高浜虚子が、自分が選んだ句を、ルイ十四世が国家や女たちを愛したように、自分のものとして所有し愛していたのは間違いない。
(註1)飯田蛇笏を筆頭に、虚子批判の平畑静塔、ホトトギス4Sの阿波野青畝、島崎千秋、金子兜太、西東三鬼、角川源義、大野林火、高浜年尾、山本健吉、石田波郷、山口誓子と続く。「虚子翁をしのぶ」という座談会(富安風生、山口青邨、楠本健吉)と「虚子先生と私」という中村草田男へのインタビューを挟んで、橋本鶏二、野見山朱鳥、森川暁水、伊藤柏翠、長谷川かな女、後藤夜半、上村占魚、阿部みどり女、吉岡禅寺洞、萩原井泉水、石昌子(杉田久女の娘)など、虚子ゆかりの反虚子を含む錚々たる俳人たちが陸続と追悼の辞を述べる。年譜、著作解題作成は、深見けん二と清崎敏郎である。
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