2009-09-27

『俳句界』2009年10月号を読む(上) 山口優夢

〔俳誌を読む〕
『俳句界』2009年10月号を読む(上)

山口優夢



特集:結社の継承 p31-

結社は継承されてゆくべきか、一代限りがいいのか、という議論に関して、6人の論者がそれぞれ持論を展開したり、自身の経験を語ったりしている。

劈頭を飾る星野高士氏は、自身の結社『玉藻』が世襲で継承されてきたことを肯定的に捉える論調、続く橋本直氏が江戸時代の俳諧における宗匠の継承について述べている。3番目と4番目の記事が現在の俳壇的にはホットなのではないかと思うのだが、これは小川軽舟氏が、「鷹」を自身が継承したことを振り返り、その結社の継承に関する理念を説いているものと、岸本尚毅氏が、主宰の交代を発表した「古志」の結社継承の方法を検証しているものだ。終わりに置かれた2つの論は、「青樹」「にれ」という俳句誌の終刊についてそれぞれ当事者であった野田禎男氏、椎名智恵子氏が思うところのことを述べている。

個々の結社の事例に関して言えば、それは結社それぞれの事情があるのだから、継承されるべきとか一代限りが良いとかひとくくりに論じることは難しいであろう。橋本氏は「それぞれの結社には、それぞれの歴史的経緯と必要な役割があるのであり、役割が終われば歴史の舞台から退場するだけのことだ。」と書いている。確かにそのとおりではあるだろうが、実に身も蓋もない言い方だ。「必要な役割」は歴史的に後の世代が振り返って初めて分かるのであって、結社にいてその場で「継承か終刊か」を考える際にはあまり意味がない。

個々の事例を越えて一般化できるような論として興味を抱いたのは、小川氏と岸本氏の記事。継承についての理念は、やはり結社を継いだ当事者である小川氏の論に、実直さを感じた。特に、「「鷹」が「鷹」であり続けるための変化」をしなければならない、という文言は、「結社は創始者のものであり、その志も一代限り(リード文より)」という結社の継承への批判に、よく答えている。

岸本氏は、「古志」が主宰定年制を採用して結社が永続的に続いてゆくように配慮している点について、自身が「渦」→「青」→「ゆう」と結社を遍歴した経験を挙げて、「「永続的、かつ強力な結社」に身を置いて勉強を深めてゆくことが出来たならば、それはそれで非常に幸せなことだったろう」と賛意を表している。しかし、そのような永続的な結社がなく、結社を渡り歩くことで岸本氏のようなすぐれた俳人が輩出されているのならば、むしろ永続的な結社に意味があるのか、と疑問がないでもなかった。

いずれにしても、結社を継承すべきか一代限りで終わるべきか、という話題自体、その結社内にいる人にとっては大問題かもしれないが、一歩結社の外に出てしまえば必ずしもそうではない、という程度の話ではないのか。しかも、ケースバイケースな要素が大きすぎるために一括して議論がしにくい。そもそも今あるどの程度の割合の結社が先代から継承されたものなのか、という基礎データすら我々はきちんと認識してはいないのだ。

一代限りで終わってしまっては結社に所属している人の行き場がなくなる、という感傷的な論調ではなく、もっと俳壇全体に通底する危機意識にまで足を伸ばした議論があってもよいように感じた。たとえば、一代限りで終わってしまっては結社としてどういう大事な機能が果たされないのか、逆に継承してゆくことで、結社の機能(という概念自体、曖昧なところがあるが)は向上したり低下したりするのか、という議論が欲しいところだ。

そういう観点からすると、小川氏、岸本氏の論は、「鷹」「古志」以外の人にも十分読み応えがあったのではないだろうか。両者とも「継承賛成派」で、「一代限り派」の意見がないのがさびしいところだが。


0 comments: