2009-09-06

『俳句』2009年9月号を読む 五十嵐秀彦

〔俳誌を読む〕
『俳句』2009年9月号を読む
 ……五十嵐秀彦


特集「老境こそ俳句は輝く!」 p61-

今回、『俳句』9月号の表紙を見て、思わずアチャーと呟いてしまった。
実は先月号の「俳誌を読む」で『俳句』8月号について書く予定だったが、時間的に余裕がなくパスさせていただいた。
そのとき申し訳ないと思いつつ、8月号の特集「秀句をつかむコツを伝授!多作多捨で自句を鍛える」の、あまりの陳腐さについて書かずに済んだことに安堵したのも正直なところだった。
そのかわりに、山口優夢氏が的を射た批評を書いてくれたので、良かった良かった、なんて思っていたのである。
ところが、9月号・・・。
またも唖然とする陳腐企画。
いつも思うのだが、こういう企画の中で原稿を書くことになった人たちは被害者なんじゃないか。

この企画のメインに置かれている特別座談会「私の豊かな俳句人生」は、金子兜太、廣瀬直人、黒田杏子という豪華版。
これだけの作家を三人そろえて語ってもらうのに、はたしてこれがふさわしい企画なのだろうか、としつこい疑念が湧いてきて困った。

「私の豊かな俳句人生」かぁ・・・。
ここまででお分かりのように、私は相当に気乗りのしないままに読み出したのである。
ところが、ん?、これは・・・と思わず姿勢を正してしまった。

面白いのである。
この座談会で進行役となった黒田杏子は、「老境」でも「豊かな俳句人生」でもなく、「産土」から会話を始めてゆく。
その導入で軽く盛り上がったところで、黒田が問う。

「金子先生、お若いときは産土という言葉を使うことにすら含羞がおありだったんじゃないですか」

そこから金子が、若い日々の故郷への反抗心から、どうやって現在の産土観へと辿りついたのか、興味深い話を語り出す。
「土」という意識が、すぐに故郷に帰結するのではなく、いちど土とは「漂泊・放浪」という命のもとでもあると気づきながら、その上で金子は秩父へと帰っていった。
三人の会話は、産土の語源に及び、生れて死ぬ場所としての「土」と詩の関係を語ってゆく。
さらに話題は広がってゆくのだけれど、それはぜひお求めの上お読みいただきたい。

というわけで、企画が凡庸でも役者がそろえばかなりのレベルのものができるということなのだろう。この座談会は面白かった。

また、座談会のほかに、日原傳、小林貴子、渡辺誠一郎、伊丹啓子、鴇田智哉、津川絵理子の6氏が論考を寄せている。「老境」というよりは、それぞれが立派な作家論となっているので読み応えがある。

特集と座談会のタイトルに、あやうくだまされるところだった。
内容はけっして陳腐ではない。


●高柳克弘 「現代俳句の挑戦」第9回「共感できる句、できない句」 p164-

『俳句』では、必ず高柳克弘氏の「現代俳句の挑戦」を読むことにしている。
毎回、古くて新しい問いをとりあげていて、そのことが今の俳句の世界で欠けているのか、喉の渇きが癒される思いがするのだ。

今月は俳句鑑賞における「共感」という落し穴についての指摘。
前半でいくつか例を挙げながら 《共感しやすい俳句の要素とは、「小市民の哀感」であり、「日常の素晴らしさ」である》 と定義した上で、はたしてそれかけでいいのか、という問いかけとなる。
歌人の穂村弘の発言を引用し、詩歌における「ワンダー」の存在に注目し、ときには理解を拒絶するかのような「驚異」の、詩歌にもつ重要性を論述している。
これは、ややもすれば、理解や共感だけを求めてしまう俳句の読みへの警告だ。
この指摘はけっして目新しいものではない。
しかし見渡せば、句会の名のもとに日本中で「共感」という感動の平準化に精を出している俳人が圧倒的に多いのが現実なのではなかろうか。
論末の 《もっと未知のものに敬虔でありたい》 という言葉は何度でも言い続ける必要があるだろう。特にここで「敬虔」という言葉を採用した高柳氏に賛意を表したい。


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