〔俳誌を読む〕
『俳句界』2009年9月号
「俳句と川柳の境界線」を読む 小池正博
A 「俳句界」9月号の「俳句と川柳の境界線」、読んだ?
B 読んだけど、このタイトルを見てまた蜂に刺されるのかと思った。
A 蜂?
B うん、わたしよく蜂に刺されるのよ。「俳句と川柳」なんて特集、川柳人にとっては蜂に刺されるようなもので、碌なことないもの。
A 僕はまた踏絵かと思ったね。おまえは実は隠れキリシタンだろう。この絵を踏んでみろ、なんてね。おっと「踏絵」も季語だった。
B 論考の一本目、尾藤一泉の文章、共通一次試験の話から始まっているわね。
A なつかしいな。いまはセンター試験だろう。一泉も若手というわけでもないんだね。
B 川柳界では若手よ。尾藤三柳の後継者で、「川柳学」とか「川柳さくらぎ」とかで活躍中。
A 「化けさうな傘かす寺のしぐれ哉」(蕪村)と「化けそうなのでもよしかと傘をかし」(川柳)を取り上げた国語の入試問題が出たという話。余談になるけど、川柳の誕生と蕪村俳諧とは同時代なんだね。吉本隆明は「蕪村詩のイデオロギイ」(『抒情の論理』)で、天明期の「地獄絵のような現実社会」における蕪村と柄井川柳との対極的な位置について書いている。石田柊馬の受け売りだけどね。
B 二本目の論考を書いている本田智彦ってどんな人?
A 全日本川柳協会の事務局長をしている人らしいね。「痩せ蛙負けるな一茶ここにあり」について、「この句は俳句でなく、川柳だと言う人もいる」と述べられている。
B 川柳人には小林一茶を川柳だと受け止めている人がときどきいるよね。
A 金子兜太に向かって、一茶は川柳ではないでしょうかと言ったらどんな反応が返ってくるんだろう。
B 柳俳問題は江戸時代から続いているとも言えるわね。
A 俳諧の発句が独立した俳句と、前句付の前句を省略して出来た川柳とは、もともとつながっているんだよ。そもそもジャンルによる選別というのは近代になってからの発想じゃないかな。前田雀郎の『川柳と俳諧』『川柳探求』などには俳諧の平句が川柳という認識が見られるね。
B アンケートについては、どう思った?
A 俳人に対しては「あなたが限りなく川柳に近いと思う俳句」を聞き、柳人に対しては「あなたが限りなく俳句に近いと思う川柳」を聞くという、皮肉な企画だね。その人の俳句観・川柳観が問われるんだよ。
B 「俳句の川柳化は俳人の詩精神の堕落であり、川柳の俳句化は柳人の俳句への憧憬とも思える」(大竹多可志)なんてヒエラルキー意識丸出しですやん。
A 大阪弁になりましたね。だから踏絵なんだよ。その人の意識レベルがもろに出てしまう。
B 「川柳に近い俳句と思う句」で面白いと思った句は
老人がハヤシライスのなかにいる あざ蓉子
二枚舌だから どこでも舐めてあげる 江里昭彦
人妻のうつくしいのは貌ばかり 筑紫磐井
このレベルでなら柳俳の異同を論じることも刺激的じゃないかしら。
A 逆に「俳句に近いと思う川柳」で首をかしげるのは、
ことさらに雪は女の髪へ来る 岸本水府
この水府の代表作がなんで俳句に近いの?まさか「雪」が季語だから、なんていう理由じゃないだろうね。
B 実際に柳俳交流の場を経験している人がどれだけいるのかということもあるんじゃない。
A 川柳にはエコール論があって、俳句と川柳の違いはジャンルの違いじゃなくて、エコールの違いだという。境界なんて曖昧でいいんじゃないかという気分が強い。俳句の方がジャンル意識がありますね。
B 「ジャンル越境時代」なんて一時言われたけれど、ジャンル意識は厳然としてあるよね。
A 地図を見ると国境線が引かれているけれど、現実の土地には線なんかないんだ。俳句界から川柳を見るんじゃなくて、境界領域に身をおいてみると、もっと違った風景が見えるんじゃないかな。
B 「国境を知らぬ草の実こぼれ合い」(井上信子)ですか。
A いや、そんなに素朴にはなれないけれどね。そもそも、俳句とは何か、川柳とは何か、なんて実作者が一生かけて考え続ける問題ですよ。
B まあ、こんどの蜂はそんなに痛くなくてよかったわ。蜂に二度刺されるといのちにかかわりますもの。
参照(編集部) 小池正博「柳俳交流史序説」
≫http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-09-koike.html
2009-09-13
『俳句界』2009年9月号「俳句と川柳の境界線」を読む 小池正博
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