〔俳誌を読む〕 『俳句界』2009年9月号を読む さいばら天気
●大特集:今こそ抒情俳句の復興を! p31-
抒情俳句? 初耳です。
抒情なら、わかります。俳句における抒情といったものの本質や輪郭など、論ずるになかなか手強く、テーマとして困難であるにせよ、抒情なら了解はできますが、「抒情俳句」とはいったい何でしょう?
「抒情俳句」というカテゴリーがあるかのように聞こえますが、この特集記事をすべて読んでも、そんなカテゴリーがあるとはどこにも書いてありません。
で、復興と言われても、困ってしまいます。
そこで特集トビラのリード文(改行適宜省略)。
俳句の抒情。それは誰もが持っている素朴な情感、優しさを詠うことである。〝愛〟と言ってもよい。日本の詩歌はそれを、ある時は高らかに、ある時はせつなく詠いあげてきた。しかし時代とともに、それらの素朴な情感は消え、平易よりも難解に、意味よりも感覚に、そして奇をてらった句が、あたかも新しい俳句の条件であるかのような風潮が見受けられる。だが、俳句は抒情であり、抒情とは愛である。もう一度原点に帰って俳句における叙情性を考えてみる。優しさを詠う? 愛?
とってもユニークな「抒情」観が〝高らかに、せつなく〟披瀝されています。通常、リード文は、記事(あるいは特集全体)の概略を伝え、場合によっては企画意図を示し、論議展開が主成分なら論点を整理するなどの機能をもちますが、それとはぜんぜん違います。
さらに「奇をてらった句が、あたかも新しい俳句の条件であるかのような風潮」を嘆く。
タイトルの「今こそ抒情俳句の復興を!」を含め、こうしたオピニオンめいた文言が、「無記名(無署名)」で掲載されています。この無署名という点は重要です。これが『俳句界』という媒体のオピニオンと解するほかなくなるからです。
『俳句界』は、いま気がついたのですが、表紙の左上に「発言する!」とあります(調べてみると今年2009年5月号以降、この文言が印刷されている)。媒体として〔よりむしろ/だけでなく〕主体として、発言していこうということでしょう。
これは危うくありませんか?
媒体が、ある特定のオピニオンや見解、傾向を持つこと自体は不思議なことでも稀なことでもない。けれども、それを顕示するか否かの違いは存外大きい。顕示するとなれば、ある路線を守るということです。例えば、「奇をてらった句が、あたかも新しい俳句の条件であるかのような風潮」を嘆く以上、「奇をてらった句」は掲載しないということです。それを「あたかも新しい俳句の条件であるかのよう」に評価する論評は掲載できません。雑誌としてずいぶんと追いつめられることになります。
一方、執筆者への制約も生まれます。この特集の場合、「今こそ抒情俳句の復興を!」という「意見」「スローガン」のもと、文章を書いたとみなされます。執筆者のみなさん、それでオッケー?
なにか、その形式や枝葉をあげつらっているように聞こえるかもしれませんが、特集タイトルや無署名のリード文は大切なところです。媒体の〝ノリ〟を決定づける部分ですから、言外の意味も伝わってしまいます。かなり本質的なところなのです、じつは。
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おそらく、前掲のリード文のような内容は、主筆なり編集長なり編集者なりが、署名で記事として書けば、すんなり綺麗なかたちになるはずです。リード文という短く、また「煽り」も味付けとして必要な部分で、これを言うよりも、記事として書く。
そうすれば、「奇をてらった句」とは、どんな句なのか、どの俳人の句なのかを具体的に挙げることもできますし、「あたかも新しい俳句の条件であるかのような風潮」の一例を示すこともできます。このリード文では言及の対象を示さず、少々下品な当てこすりのような「対象・非特定」になっていますが、署名記事なら、それも避けられます。賛否の反応を呼び、議論が発展することも考えられます。建設的です。
●魅惑の俳人たち21 草間時彦 p119-
草間時彦といえば、食の俳句(公魚をさみしき顔となりて喰ふ、大粒の雨が来さうよ鱧の皮、など)がまず思い浮かび、それから、主宰経験のないこと(甚平や一誌持たねば仰がれず)で知られるが、本領は句集『淡酒』にあるとする筑紫磐井「燃えるごみ燃えないごみ」をはじめ、全体に句の紹介の多い特集。読者には嬉しい。
さうめんの淡き昼餉や街の音 草間時彦
遠くとほく櫻咲きゐる睡りかな 同
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